自分は格闘技というと、前回の記事まで扱っていた相撲以外は、殆ど興味がない。
ごく稀ににボクシングを、tubeで眺めたりするくらいだ。
21世紀前後というのは、「総合格闘技」というのが、ビジネスとしてエンターテインメントとして盛り上がったことは知っているが、「ルール無用の異種格闘技戦」的趣向は好まないため、ハマらないのだ。
相撲にせよボクシングにせよ、「型」があるから良い、というスタンスと言える。
では「プロレス」はどうか?
プロレスは、スポーツではなくエンタメ、興行である。(無論、相撲にもそうしたニュアンスが込められることがある)
「筋書きとか台本が決まっている」、それ自体を「プロレス」と呼ばれることすらある。
「(何者かの政治・ビジネス的意図を持った)ヤラセ、その演出」の類は、反吐が出るほど忌避している。
しかし、「プロレス」という「文化」、またその「歴史」には無関心とも言い切れない。
日本文化に多大な影響を与えているのは間違いない事実だからだ。
自分はお笑いが好きだが、芸人でも、熱狂的なプロレスファンが数多くいて、プロレストークを展開することは少なくない。
その中で、伝説的レスラーの名前くらいは、次第にインプットされていくのだ。
もう一つは、メディアやメディアビジネス、その歴史への影響である。
戦後間なしは、特にプロレスが隆盛し、それとテレビメディア発達と密接に結合していたのは周知だ。
しかし、その後、例えば上述の21世紀前後の総合格闘技隆盛の際も、そうした動きはあったのだ。
そして、「総合格闘技」「プロレス」の絡み合った歴史、また両者のスタンス(ないし思想?)とでも言うべきものだ。
自分は何でも歴史から眺めるという習慣があるが、「プロレスの歴史」で、最初に読んだ本は、ミスター高橋「流血の魔術」から始まっている。
しかし、そこから始めてしまうと、「じゃあ次はどこへ?」という指針がない。
元々、プロレスへのロマンや興味がある訳ではないところに、「フェイクの暴露」めいたところから話が始まってしまうからだ。笑
友人がターザン山本のファン(?)で、その著書や記事を読んだこともある。
プロレスの「ロマン」が分からないが、その「政治史」を、少しずつ読み解いていきたいとの思いはある。
また、数々のレジェンドの名はある程度分かるので、その「アイコン」としての意味合いくらいは分かるようになりたい。
最近読み始めて面白かったのが、「KAMINOGE 150記念号」だ。
プロレスラーやプロレスファン、プロレス界の人々は、日本社会や文化・メディア、政治に対し、非常に独特な視点や切り口を持っている。
それが「面白」、しかもfunnyな「面白」なのだ。
繰返しになるが、プロレスは、日本の文化・社会・メディア、歴史に大きな足跡を留める。
競技や種目としては、たぶん今後も興味を深めることはない気がする。
しかし、その文化や関わる人々全体が提供する「視点」には、「奇天烈さ」が含まれていて、妙に目を引いてしまい、そこから日本文化や社会の理解が深められることがある。
そうした「重層型、巡廻構造」の、奇妙な「文化装置・仕掛け」をもたらしてくれている。
そこがどうしても気になってしまい、どうも「プロレス」を無視することが出来ないのだ。