日本-クロアチア戦は、実に想定外の結果(本割は1-1の引き分けで、PK戦敗退)だったが、それに増して興味深かったのが、「その結果を受けた世論の反応」だった。

意外なのが、「PK戦は運次第。運が悪かった」という世論が、かなり強硬であることだ。

クロアチアはしかも、ブラジル戦でも同様の結果で勝利を導いた。

「敗けない試合に持ち込んで、PK戦に持ち込んで仕留める」が、クロアチアの強みでありかつ戦略であることは、疑いようのない事実だ。

(厳しい言い方だが、素人目にも、PK時の両国キッカー、キーパーの技能差ははっきりしていた)

 

もしかして、まだ準決・決勝でも、それを見られるかもしれない。

更にそれを見せつけられれば、さすがに「運だった」などとほざく日本人サポーターは減っていくだろうけれど。

 

「クロアチアの粘り強さ」というのは、前評判の通りだった。

が、問題は「評価を強調すべきポイント」にズレがあったのではないか、ということなのだ。

 

すなわち、(筆者自身がそうなのだが)「勝ち」か、「敗け」かという結果の二分論に捕らわれていなかったのか、ということである。

「本割で勝つ、負ける」までは考えられていたが、「引き分け」が考えられてなかったとするなら、間違いなくシナリオ不足、シミュレーション不足である。

 

クロアチアは、それが強みであるだけに、はなから想定していたゲームプランなのに対し、日本には間違いなく無かった。

(だから平気で「運だった」などという言説がまかり通る)

その時点で敗けていた、という見方も無論可能だろう。

 

 

中身以外にも気になるのが、世論やメディア言説のどうしても遺る幼稚さ、主観的・情緒的な(「応援的」)解説の在り方である。

「応援」自体は全然良い。というより当然のことだ。

しかし、彼我の戦力の冷静な比較が、脇に押しやられてしまう傾向は否めない。

 

昔からあるけど、「日本代表は頑張った。それをリスペクトすべきだ」「批判する奴はサッカーしたことないだろ」式の議論は、今回も見かけて苦笑した。

しかし、その手の言説も、割と「共感」を得ていたりするから侮れない。

 

過去優勝経験国のドイツ・スペイン撃破という歴史的快挙を成し遂げた自国に対して、リスペクトや労いがないはずはない。

(もっとも、ツイッターにあふれる短文の罵倒などではそれを感じられない、と見る向きもあっても仕方ないけど)

ただ、そのことと「結果を正面から受け止められるか、そしてそれをどう評価するか」「その評価を、次回以降にどう生かすか」は別の話だ。

 

未だに、「頑張りましたで賞」の有無を自分自身に投影して、「日本代表」にもそれ「だけ」を与えるべきだ、と考える勢力の侮れなさに戦慄するのである。

 

 

正直、日本メディアの主観的・情緒的な報道には、いい加減辟易したところだ。

次回以降は、海外の(解説は欲しいので英語の)メディアで観戦することをようやく検討し始めた。

(筆者は目下のところ、サッカーマニアでも何でもない、日本の大衆割合を最も占める「W杯の時だけニワカ」でしかない。笑)

 

日本メディアの報道も「成長してない」訳ではない。

(日本社会の「全体的な」サッカー熱が、かつてに比して相対的に冷却したことが好影響したのではないかと見ている)

報道を見ていても、海外勢のプレーにも、より目配りが為されてはいるようだ。

だが、「もっと強く欲しい」のだ。

当事者戦であればむしろなお、「もっと冷静に、客観的な」報道を、(すべてである必要はないが)きちんと残しておいて欲しいし、その俎上できちんと冷静に議論できるサポーターに、多く育っていって欲しい。

 

要は、日本の世論こそが最も、「打たれ弱い」「勝負弱い」のである。

(「信じる」のは大切だし結構なことだ。だが、「知」のない「信」は、無根拠な宗教に過ぎない)

そうした「世論の強靭化」こそが、日本サッカーをますます強め、盛り上げることは間違いないからである。