多くの人が聖書の誤訳に惑わされ、起こりもしないようなことを起こると信じて待っていたりするのは、
聖書に書いてある通り「知識がなければ惑わされ嘘を信じて騙される。」というこが現実となっているからなのか。
たしか、箴言という書に書いてあったと思う。
聖句の箇所が思い出せない、情けないひろばあです。
翻訳日本語聖書を調べてみると、ある一つの箇所でも、訳によって『これ·それ·あれ』、「え~~?、どれが本当?」意味が変わっちゃう。「きっと、国文法の復習ね。小学2年生頃に習った、『こそあど言葉、これ·それ·あれ·どれ?』、ジョークで~す❗」
翻訳を頭から信じず、しっかりヘブライ語・アラム語・ギリシャ語などの原文を調べ、一つの翻訳に固執し過ぎない牧師さんのいる教会を見つけることは、信用できる教会を見分けるのに役立つことの一つかもしれません? あらゆる可能性を追求しないで「こうなのです❗、と自分の意見を無理やり押し付けたり、「私たちはこう考えます。」と私達に代わって意見を述べてしまう人もいますが、「待って私はそう考えていない〜!」と慌ててしまいます。こんな場合、誤導されてしまう人もいるのでは?。最初から誘導・誤導が目的の場合もあるのかな?
聖書が、頭からすべてを信ぜず、自分でよく聖書を研究した人々🤔を褒めているのは😀🎶。この為なんですね。
新約聖書の使徒行伝17章から
11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
ある牧師さんは、「私だって間違っているかもしれない。人から教えてもらうだけでなく、
まずは自分で調べてください❗」と、必死で訴えていました。神との関係を築くには、ひとり
ひとりが自分の頭で考える必要があるという事を言いたいらしいです。
私は、東京でこのような信頼できる牧師さんを見つけ、集会に参加してきました。
このような方は、ただ面白おかしく話したり、興味深い政治の話をしたりするだけではなく
真剣に聖書を調べ多くの人に伝えようと努力しています。しかし、こういう方は数としては
少なく非常に残念。この方こそ”本物の羊飼い”だと思います。聖書では、羊飼いはイエスを
表したり、人々に神について真実を教えるよい教師を表したrしています。
ここの教会はオススメです!
黙示録の第一章には、次のように書いてあります。
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
つまり、90歳前後でローマ皇帝に油の鍋で煮られても死ななかったヨハネ、イエスの亡くなった後60年以上も生き残っていた人が著者は自分ではないとハッキリ書いている。
神が著者で、イエスに伝え、イエスが御使いに、御使いがヨハネに伝えたのですね。
“ハルマゲドンとか、獣の数字666”とか、興味本位で面白そうに書いたり話したりしている人達の話にのって、神から遠ざかり命を無駄に失う人たちの仲間入りをしないよう注意していきましょう!
次に3節にこうも書いてあります。
3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
「この黙示録は読む必要がない。」とか、「神聖なものなので平信徒は読まなくても大丈夫。」とも言われることがあるらしい。
でも、1章3節では、確かに聞いて守れと書いてありますね。
黙示録の最後の方に、書かれている言葉は?
黙示録22章
19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
誤訳はどうなのかな?と考え込んでるひろばあです。