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リーンのガラパゴス批評~“この国のかたち”はどこへ行く。

“3.11”の衝撃を受け、日本は大きく舵を切ろうとしています。この国のかたちを見据えるため、震災と原発について書く時事批評ブログに変身します。文章を書くだけのブログに何ができるでしょうか?

 『美味しんぼ』の原発の表現における騒動を見たり読んだりして思い出したのは、


 『明日、ママがいない』


という、日本テレビ系列で放送されたドラマのことだった。これは、児童養護施設を扱った芦田愛菜主演のドラマだったが、これを見た視聴者の中にPTSDの症状が出たり、また子どもをあずける施設への偏見を助長するということで抗議が放送局に寄せられたり、スポンサーが広告の放映を見送ったことなどについての問題だった。当然、ドラマを見た人にはフィクションであることを理解したうえで制作者側を擁護する発言もネット上では多かった。


 私はたとえ人数が少なかろうと、幼いころを思い出してドラマを見た瞬間に何らかの症状を発症する人がいたら、なにがしかの配慮をするべきだったのではないかと思っている。ドラマが面白かったかと問われれば、施設の作りというよりはいかにも作り物の家と偏見の助長を助けてしまうと私にはとれてしまう過激な描写についていけず放映途中で見るのをやめてしまった。


 ドラマを冷静に見て理解できる人のためにではなく、何らかの身体的異常を発症したり精神的に苦痛を感じる、そんな方のための配慮が必要なのではないだろうか。そういった弱者の人の声はだいたい小さく世間を揺るがすところまでいかない。


 今回の『美味しんぼ』の“鼻血”問題では、国や大阪市などの自治体がいち早く抗議の旨をビッグコミックスピリッツ編集部に送ったり懸念の旨を表している。だが、正直なところ臭いものに蓋をしているといった印象が強い。今回の連載の最後に自治体や有識者の意見を載せている。


 今回の件で、ウクライナやベラルーシ、あるいはヨーロッパの国々が、チェルノブイリ関連の様々なデータを提供してくれました。ウクライナなどは国情が大変ですが、きっちりとした健康調査を行っていて放射線による健康障害についての研究も行っている。しかし、日本は今回の福島の原発事故で漏れた放射線は少ないから、健康被害は出ない、だから健康診断や疫学調査はいらないと決めつけて、甲状腺のエコー検査以外何もしません。これはとんでもないことです。


          (山田 真氏 BIG COMIC スピリッツNO.25号)


 この意見が、自分の思いを簡潔に表現してくれている。


 原発事故が起きたとき


「ただちに、被害をもたらすものではありません」


 といっただけ当時の枝野幸男官房長官の発言に代表される、情報を開示ししないで逆に不安を煽り市民を放射線が拡散した地域に避難させる結果になったことは非常に重い。


 政府が民主党から自民党に政権が代わっても、懸念を表するばかりで東京電力の顔色ばかりうかがう体質はちっとも変わらない。『美味しんぼ』を攻撃するより、抗議だけに躍起になる自治体や政府の姿勢こそが問題なのではないか。

 もし、私が小説を書くとしたら、この『原発ホワイトアウト』の内容に、福島県で生きる人々や他県へ避難している方々を加えて大河ドラマの様相にすればいいかな、というところだ。著者の若杉冽(わかすぎ れつ)氏は霞が関の省庁に勤務する現役官僚ということ以外プロフィールが明らかにされていないが、この本の内容が政治家やマスコミ関係に多く偏るのは仕方のないところだろう。登場人物の中に新崎県知事・伊豆田清彦がいるが、これはどうみても新潟県の泉田知事を想起させ、読んでいるこちらとしてはニヤリとする。作中では伊豆田知事が逮捕されてしまうが、このくだりは福島県の佐藤栄佐久・元知事の逮捕(おそらく仕組まれた誤認逮捕だろうとご本人の著作からうかがえる)、および事件をもとにしているのかと思わせる。おそらく、原発関連のニュースや著作をかじった読者にとっては内容を飲み込みやすい。そこが著者の狙いなのかもしれない。


 小説は、官僚と元アナウンサーの女性が絡んでのリークが絡みながら、紅白歌合戦が放映されるさなかに起きた事件が、日本の滅亡を思わせる悲劇として演出されて話を終える。


 歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として


                              (カール・マルクス)


 悲劇から学ばず、喜劇を呼び込む日本の現状への批判としてこの小説は存在感を高めている。


 昨今、集団的自衛権の行使が問題になっているが、この本に書かれた“喜劇”が他国の工作員によってホワイトアウトのさなかに引き起こされるかもしれない。福島第一原発の事故では東京電力はもちろん、自衛隊も上空から放水する程度しか能力を発揮できなかった。原発も使い方を間違えれば原子爆弾並みの災厄をもたらすことは可能だ。この小説を絵空事と笑い飛ばしてしまうようでは、この国の危機は無くならないし、自衛隊の効力を発揮するところを誤ってしまうのではないか?みだりに集団的自衛権を行使する状況に陥り、ウクライナ情勢に首を突っ込んで日露戦争にならないとも限らない。そこに自衛隊を参加させるよりも、東日本大震災から教訓をくみ取り、原発の放射線事故の対策や、そこへの自衛隊の協力体制をどう築くか、そこを構築するのが本当の国防と言えるのではないだろうか?だが、東京五輪を招致したことに舞い上がっている現状ではそれも程遠い。


『原発ホワイトアウト』の危機は、今日もこれからも続いていく。

 今日は感想だけ。


 井戸川克隆・前双葉町長などの実在の人物が漫画に登場している。私はこうした人たちが出ていることの意味が大きいと思っている。作品に載せられることについて反論をしているという伝聞はこちらでは聞いていない。


 その、井戸川氏が『美味しんぼ』の第604話で


「どんな獣でも鳥でも自分の子供を守るために全力を尽くす。どうして人間にできないんですか。子供の命が大事でしょう」


 と、山岡たちに訴えている。


 この意味を深く考えなくてはいけない。


 風評被害


 という言葉で、真実が覆い隠されているのが福島の現実ではないか?


 

 今、福島で何が起きているのか?


 その事実を知り、報せることだけが原発事故の本当の終息に向かわせる。もちろん、福島第一原発で懸命に働く作業員の尽力なくしてことは進まないのは無論のこと。


 BIG COMIC スピリッツのNo.22・23号に掲載された『美味しんぼ』の“鼻血”の描写が風評被害を生むとして、福島県双葉町から発売元に抗議が起きる事態になっている。この漫画を私は久しく読んでいないので今回掲載された第604話以前の内容がどんなものかは現時点では知らないが、いわゆるグルメ漫画というもので、主人公・山岡士郎とその父・海原雄山の対立を軸に、日本の食に関する問題点を指摘する内容であることは知っている。そして、今回の漫画の中に前双葉町長の井戸川克隆氏が出ていることが、それなりに重みがあるものだと受け止めている。


 私は2012年の4月11日にいわき市で一泊している。旅の目的はいわきアリオス大ホールで行われた山下達郎のコンサートを聴くことだった。震災発生から1年1ヶ月後、福島の空気を肌で感じながらコンサートを楽しみ、そして人々や土地の様子をなんとしてもこの目で見ようと決意してのことだった。市内のホテルの予約がなかなか取れず、ようやく旅行の数日前にアリオスの裏を流れる川を挟んだところにひっそりと立つ古めかしげな旅館になんとか宿をとれた。コンサートを存分に楽しんだ。翌日、朝食もいただいた。御御御付け、ご飯、ナスのお浸し、お豆腐、といったごく普通のものだったが何も気にすることなく御代わりまでいただいた。そして、J-ヴィレッジにいき、白い作業服に身を包んだ作業員がマイクロバスに乗ってF1に向かう様子をこの目で見た。


 いわき市で鼻血を出している人はいなかった。まあ、外出している人に不穏な空気を醸した人はいなかった。だからって、今回の美味しんぼの表現を一方的に害悪と決めつける気にはなれない。ネットで散見される作者への魔女狩りのような責めは異常すぎる。双葉町は風評被害、ということを気にしている。でも、あの原発事故が福島市民のミスや罪で起きたものではないし、放射線による体の異常が仮に市民にあったとしても(あってはならないのだが)、風邪やインフルエンザのように体内に取り込まれたものが、そこから他人に感染するというものではない。


 風評被害とは、いわれなきことを荒立てて一方的に相手を苛め抜く、というものだ。私は福島の人を原発のことで悪しざまにいう気にはなれないし、といって自治体が風評被害といって抗議するのも是とはできない。


 大事なことは、自治体も一般市民も知らされていない事実があるのか、ないのか。漫画の中で山岡が鼻血を出したのと同じようなことが現実に、因果関係はともかくとしてもあるのか、ないのか。それが知りたいし、その事実を開示するのが本当の意味での心の復興につながる。作者に悪のレッテルを張るよりも、福島の人やその特産物を避けるよりも、事実を知って寄り添ってあげたい。いわき市で1食取った身だから信じて食すぐらいはできますよ。

 つらくて、苦しい。


 疲れるばかりで実入りが少ない。


 親のまねをして細々と作物をつくる、それが農業だ。


 これが零細農家に生まれた筆者の実感である。


 ところが、長野県千曲市在住のエッセイスト・玉村豊男は著書『千曲川ワインバレー 新しい農業への視点(集英社新書刊)』で、


 シルクからワインへ。もしこの地でのブドウ栽培とワインづくりを次の世代のための仕事として受け渡すことができれば、日本の近代を支えてきた養蚕製糸を中心とするシルク産業に代わって、ワインをつくる農業が未来の若者たちの糧になるかもしれない。(P226)


 と、夢にあふれた文章で農業、いやワイナリーつくりへの憧れをいざなってくる。


 この本の中に


 エシカル・マーケティング


 という、筆者が恥ずかしながら初めて目にする用語が登場する。


 エシカル(ETHICAL)⇒倫理的な、道徳的な、


 という意味の英語だから、エシカル・マーケティングは倫理的な商売、道徳的な市場開拓、と訳すと書いている。つまり、


 生産者はウソをつかず、隠さず情報を公開して、誠実なものづくりをする。


 消費者はその品質を維持するために生産者が必要とする条件を理解し、適正な価格を納得して支払うことで、生産者が末永く支援すること。


 両者の信頼関係に成り立ったマーケティングがこれから求められる農業であり、ワイナリー経営に必要であると書いている。


 そんなこと、うまくいくのかなあ。と、心の声がつぶやくが反論する材料はひとつもない。でも、シルクからワインへ、という文章は長野県産業の歴史をひとことで的確に言い表している。そのほかにも日本のワインブドウの品種やその生い立ちなども詳しく書かれ、ワイナリー経営を単なる金銭目的では行っていないことが知識の開示を見ただけでも伺える。


 日本の気候は熱帯気候に変わりつつあり、それにともなって長野県が山梨県にとって代わってワインブドウの一大産地になろうとしているとよく耳にする。


 シルクからワインへ。


 いよいよ、この本で語られることが実現しようとしているのかもしれない。今長野に来れば、その産声がきこえてくるかもしれないですよ!?