被災者が不安と絶望の淵に沈んだ夜のことは、私はどういうわけか記憶が曖昧なままだ。
まだ東日本大震災、と名付けられていない未曾有の大災害の最初の記憶は、
iモードがまったくつながらない
というものだった。2011年3月11日に信州・松本で感じた揺れは、東北で感じる余震に比べれば大したことはなかった。私は終日外気を体に感じながら仕事をする。この日も外にいた。地震が起こった2時46分、車がわずかながらゆっくりと左右に揺れた。それをじっと見つめたことで多少めまいがした。実際、足元から数分間だったろうか、ゆっくりと身体を揺らされた。携帯を取り出し地震速報を見ようとiモードを起動した。しかし、情報を得ようとしてもまったくつながらなかった。少なくとも夜を迎えるまでは携帯から地震情報は得られなかった。
それが、小さな予兆。重大な災害のほんのかすかな兆しだった。
帰宅してニュースを見たが、実はこの日に津波の映像を見たのかは非常に曖昧だ。私がこの日にはっきりと覚えている映像は3つある。
宮城県気仙沼市の市街地の夜を焦がす火の海
東京湾のコンビナート火災
首都圏の交通が麻痺し、いわゆる帰宅難民がビルの谷間にあふれる
太平洋沖で起きた地震が及ぼす影響がここまで広範囲になることの恐ろしさを感じたが、安否確認などの情報が極端に少ないことや津波の全貌が明らかにならないこととの落差を感じながら異様な不安だけを感じながらその日は床についた。
そして3月12日午前3時59分。
眠気を覚ます揺れが背中の下から襲った。昨日の揺れよりはっきりと、小さな不安が大きな恐怖に変わる寸前までそれは続いた。
長野県栄村、および新潟県津南町を地震が襲った。
休みを取っていた私は、ほとんど呆けたようにテレビから送られる映像を見続けた。東京キー局から昨日起きた被害の絵を見た。
地震、津波、風、雪、宮城、福島、青森、福島。
液状化、浦安。
……。
地方局に切り替わる。
家屋、倒壊、雪、栄村。
そして、
原発、爆発、福島。
私にとって、震災の絵の記憶は、3月12日および翌13日に見たものが大半を占めている。
“3.11”
と記号化してこの震災を刻みつけようとするが、やっぱり自分の記憶は時間のズレが生じている。被災者が悲しみのどん底に落とされているころ、生ぬるくも時間が経ってからことの重大さを知る。
3月12日の記憶を甦らせ、私は涙を流す人に寄り添えているだろうか?