ふと思うことがある
人の運命は
人の生死はどこで決まっているのだろうか

あの日
中山寺に
娘の安産祈願のお参りに行ったあの日
お昼に娘と普通にラインしてたのに
夕方、よもやの
「切迫流産で緊急入院となった」と
娘からの連絡を受けて
慌てて病院へ駆けつけたあの日

会社を早退しての義息子より
私の方が早くに先生方の説明を聞いた

「妊娠20週では生存率は
かなり厳しい
助かったとしても
かなりの確率で重い障害が残る
…………」と告げられ
「このまま赤ちゃんを諦めるか、
それとも障害が残る赤ちゃんを産むか、
どちらかを一時間以内に選んで下さい」と
妊婦にとって
死ぬほど辛い選択を迫られたあの日

もし
娘が過酷な不妊治療を長年受けてなくて
流産を経験してなくて
30代半ばでなく、もっと若かったら
と言うか
わずかなチャンスでも
残っていたのなら
今回は諦めていただろう

でも
娘はいずれ子宮摘出手術を受けるので
今回が最初で最後の赤ちゃんなのだ

私は我が身に置きかえて考えた
……………
…………………

(もし、私が娘だったら
今 お腹の中で生きている児を
殺すことは出来ない
どんな障害を持って生まれて来ても
私は赤ちゃんを殺す事はできない
死なす後悔よりも
生かす後悔を選ぶ)と思った

私は何も言わず
娘に一言だけ
「〇〇ちゃん、どうする?」と聞いた

娘は
「産む」とハッキリ答えた

娘は娘の意思で
かなりの確率で重い障害が残る児を
産む決意を下した

義息子はそんな娘の意思を
尊重した

すぐに子宮口を縛る手術を受けて
それからMFICUで辛い治療の日々を
長く耐えた娘
義息子も本当によく娘を支えてくれた
私もほぼ毎日病院へ通った
みんなで娘を支えた

その後
新たに臍帯ヘルニアの合併症の
大きな病気の疑いが出てきて
娘は受け止めるのに苦しんだ

普通に妊娠して何のトラブルもなく
普通に出産した私から見ると
同じ女として
娘が………………で仕方なかった

その病気は生まれてみないとわからない
そして
成長してみないとわからない病気でもある
……………………………

先生方や看護婦さん達と
娘の頑張りのおかげで
奇跡的に赤ちゃんは持ちこたえてくれて
妊娠30週で無事にこの世に生まれてきた

もしもあの日
あの時
娘がもう一つの決断をしていたら
赤ちゃんはあの時 露と消えていたのだ

後になって
私は娘に聞いてみた

「〇〇ちゃん、あの時
なんで産む決断をしたん?」と

娘は答えた

「あの日、それまで感じてなかったのに
初めて胎動らしきものを感じてん
そやから、生きてる赤ちゃんを
殺す事は出来へんかった」と

「でもあの胎動を感じんかったら
生きたいと言う赤ちゃんを
感じんかったら
障害の事を考えたら諦めてたと思う」と
娘は続けた

人の生死はどこで決まっているんだろう
もしも
あの日、
かすかな胎動が無かったらと思うと
不思議な気持ちになる

今 生きたいと意思をハッキリ示した
娘夫婦の赤ちゃんは
生まれてすぐに受けた
臍帯ヘルニアの手術も経過が良く
他の不安材料も次から次とクリアしている

出産前から疑いのある
合併症の障害の診断は
もう少し大きくなってから詳しく検査を
受ける事になっている
正確な診断の検査には
娘夫婦二人の遺伝子検査も
必要とのこと

でも
私にとっては検査の結果はそんなに
重要ではない

結果がどうであれ
受け入れるだけの話である
障害があろうが無かろうが、
〇〇くんであることには
変わりないのだから

もし将来
障害が決定したら
私は全力で娘を支えるだけである

余談だけど
義息子は35年前の生後一か月の時に
心臓の手術を受けている
彼によると
保育器の中でたくさんの管に繋がれてて
痛い痛いと手を動かしてた
その時の気持ちを
今もハッキリ覚えているそうである

そばにいてた父母の顔も
ハッキリ覚えていたとかで

保育器の中での自分の記憶と
彼のご両親の記憶は
一致しているそうであるから
本当に不思議な話である

三島由紀夫は
この世に生まれた時の記憶があるとは
よく聞く話で
凡人はそんな事はないと
今まで思っていたけれど
義息子の話を聞くと
本当にそんなことがあるんだと
ビックリする

そんな義息子は
今 保育器の中で
管に繋がれている我が子に
あの時の自分を重ねて寄り添い
体にふれて声をかける

もう、パパやママの声にも手にも
反応している〇〇くん
早く元気になって
パパやママに抱っこしてもらえるといいね


それにしても
人の運命ってどこで決まっているんだろう
つくづく不思議である










*・゜゚・*:.。..。.:*・''・*:.。. .。.:*・゜゚・*