昔、住んでた地に親と住めない子供達が住んでるホームがあった。
息子が小学生の時、そのホームの同級生の妹さんがリンチにあって亡くなった。
当時、マスコミでも多く取り上げられた事件。
PTAの役をしてた私は同じ役をしてたお母さん達とその子のお葬式に出席した。
キリスト教のお葬式だったけど、残されたお兄ちゃんや、ホームに預けた親御さんの気持ちを考えるといたたまれなかった。
何より親元を離れてホームで暮らし、リンチで亡くなった小さい女の子の心を思うと可哀想で可哀想でたまらなかった。
殺されるために生まれてきたわけではないのに、ホームではたくさんの子供が居てたのに、この小さな女の子が死ななければならない運命はどこから来たのだろう。

あれから、世の中は大きく変わった。
可哀想で可哀想でたまらない仕打ちを親から受けて亡くなる幼子が後を絶たない。
人間のすることだろうかと信じられないような事を我が子にして平気で殺してしまう親がいる。
亡くなった子は、殺されるために、親に殺されるために生まれてきたわけではないのに。
何のための命だったのだろう。

親に大事に大事に育まれる命も、親によって哀れな最期を遂げる命もある。

ほとんどの人は最後まで続く命。
大半の人はそうなのに、ある日突然、非情にも断ち切られる命の人もいる。
この違いはどこから来るんだろう。

3.11日の津波でも、亡くなった命、生かされた命がある。
この命の違いはどこから来るのだろう。
同じ場所にいても助かる命と亡くなる命の違いはどこから来るのだろう。

答えが見つからないまま、人々は
運命だと言う。
そう、ヒトは持って生まれた運命を生きているのだ。
そうして逆らえない運命の中で生きている私達。

夏の原爆の日みたいに3月11日だけ
命の大切さを言うのではなく、
毎日、誰もが命の大切さを感じたい。
大きな命も小さな命も、みな同じ命。
亡くなった命も生きてる命もみな大事な命。

生かされている命を大事にしよう。
残された命を輝こう。
*・゜゚・*:.。..。.:*・''・*:.。. .。.:*・゜゚