痴呆症だったおばあちゃんは、
私のことを、
それまでの〇〇ちゃんではなく
「おかあちゃん」と言い出して、
家の中では私がいないと寂しがった。

夫には最後まで
「おとうちゃん」と言わず 〇〇と呼んだ。
夫には小さい頃から世話してた〇〇で
あってくれて、本当に良かったと思う。

身の回りの世話をする私を
おかあちゃんと言い出すのも無理はない。
自分のお母さんの事を思い出していたのだろう。

みんな、どの人も
最後はやっぱりお母さんなんだなあと
思う。

おばあちゃんの世話でいっぱいいっぱいの頃
お年寄りの一人、叔母のご主人が病気になった。

手術するも、手術後、意識が戻らず植物人間になった。

叔母と私で交代で毎日病院に通った。
私がいない時は、おばあちゃんを叔母に頼んだ。

私はこの義叔父がお年寄りの中で
一番気があって好きだった。

ベッドの上で動かない義叔父だけど、
「耳は聞こえますので話しかけてあげてください」と看護婦さんに言われて、
毎回、限られた時間の中で物言わぬ義叔父に
話しかけ、手を握った。

面会時間は10分で白い帽子、マスク、白い服、靴も変えて集中治療法室でチューブだらけで
寝ている義叔父に話しかけた。

手術から一ヶ月後、
「脳死状態です。今は機械で生かされていますが、もう自発呼吸は無理です。
機械を止めるかどうか判断してください。」と
医師に告げられた。

叔母は結局決められなかった。

決められないまま、なぜかあの日は
それまで別々に病院に行ってた叔母と
私が2人して病院へ行った。

何となく予感がした私が叔母を誘って
行った事が良かったのだ。

義叔父は静かに亡くなった。

私は、決められなかった叔母のために
義叔父が静かに逝ってくれた事に感謝した。

正直なところ、
私は子供や夫の世話をし、痴呆のおばあちゃんの世話をし、手術から気落ちしてる叔母の世話をしながらの病院通いは、もう限界だったのだ。

私の限界は一ヶ月なんだと悟った。

その限界がピークに達する頃、
義叔父は逝った。

静かに逝ってくれて良かったと
心から思った。

手術から目覚めても、あれだけ臓器を摘出した身では、今後本人も苦しいだけなのだ。
何より、自身、手術の成功を考えて
結果、目覚めることなく逝けた事は、
本人のためにも周りのためにも良かったのだ。
私のみならず、夫も身内も、皆が
「苦しまずに逝けて良かった」と言った義叔父の死。

遺品を整理してたら、
「闘病記」なるものを残していた義叔父。
手術前日迄、克明にノートをつけていた。

最初の頃は叔母の名前が登場してたけど
最後の方は私の名前が多かった。

手術前日 私が行くのが遅くて「まちどうしい。」と書かれてたのが最後になった。

ずっとベッドのそばで話しかけてあげる事が出来て良かった。と心から思った。
私は
義叔父のために、義叔母のために、私のために
お別れの期間を与えてくれた天に感謝した。

おばあちゃんはお葬式の間、
ショートステイを利用した。

可哀想だったけどお葬式に来てくれる人に
迷惑をかけたらいけないからと夫が判断した。

結局、
おばあちゃんはその後、何年かして
病院へ入り亡くなった。

大晦日に亡くなったおばあちゃん。
その17日後に阪神大震災が起こった。

「怖い思いをせんで良かった。」と皆が口にした。

9人、お年寄りがいてたけど
痴呆になったのは、おばあちゃん1人。

義叔父、おばあちゃんともに84歳で
亡くなった。


今も、痴呆の人が話題になる時、
おばあちゃんの事を思い出す。

もっと何とかしてあげられたのかもしれないけど
人間のできる事は限られている。

痴呆老人を抱えている多くの家庭が
限られた中で精一杯なのだ。

痴呆は本人も家族も悲しい。