人は認識の世界で生きている、とはよく言うところです。

これはこうだと思う、あれはああだと思う、の、「思う」の部分が結局はその人にとっての事実だということです。

人の認識を通さない純粋な「事実」というのは人には抽出しようがありません。もしそこに存在するとして、私たちがそれを認識するときには文字通り認識になってしまっているのでやはり認識が事実であるとしか言えません。



2000年近く時を巻き戻してヨーロッパ。

イエスはユダヤ教の戒律重視の姿勢を批判して平等を説き、特に弱い立場の人々に支持されていたという話です。

それを快く思わなかった連中が

「イエスよ、我々はローマ帝国に税を納めるべきか?」

と質問しました。

実はこれ、そうではないと答えればローマ帝国への反逆とみなされるし、納めるべきだと言えば彼を支持する弱い立場の人々はがっかりするという罠なんだそうです。

いずれにせよイエスの立場を苦しくするつもりですね。

しかしイエスは逆に「コインの肖像は誰か」と質問しました。

コインにはカエサルの肖像が刻まれていたので質問者は「カエサルだ」と答えました。

そして最後にイエスは

「カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」

と言ったんだそうです。


これは非常に有名な言葉です。

しかしはっきり言いますが、僕なんかはちょっと意味がわからないのです。

表面的なことから思いっきり発想を変えて核心を突くことを言っているようでいて、煙に巻いている。正直に言うとそういうふうにも思えてしまいます。

実はこの言葉、聖書を研究する人たちの間でも解釈が分かれていたりするようです。

一般的には「それとこれとは分けて考えよ」ということの単純な例えとして引用されているケースもあるし、あるところでは説明なしに「完全無欠の答え」と書かれていたりします。


もちろん、背景を詳しく勉強しているわけでもない僕が意味に言及したりするのはおこがましいだろうし、結局のところ真意はわかりません。宗教の問題に踏み込むつもりもありません(なので真面目な突っ込みとかは勘弁してくださいネ)。

しかし研究者の間でも意見が分かれるほど意味がわからないのに、罠をくぐり抜け、千年以上経っても人々に「完全無欠だ」とか思わせて、否定をさせない。

それを考えると確かに完全無欠かもしれない、すごい、と思うわけです。



今度は現代ですがいつだかテレビで見た事件。

あるラーメン屋で、他の普通のラーメンから頭ひとつ抜けた高い値段で「究極のラーメン」なるメニューがあったそうです。

気になった若者が注文してみると、具がのっていない麺とスープだけの洗練されたラーメンが登場。

戸惑いながら食べてみるとこれが、うまい。

なるほどと満足してお金を払い、めでたしめでたし、だったらよかったんですが、その若者帰り際に店の人間があることを話しているのを聞いてしまいました。その内容が

「“究極のラーメン”なんて本当は普通のラーメンの具をどかしただけなのになぁ。今日も大儲けだ、ワッハッハ」

というものだったらしい。


あぁ、残念。

最後の最後に魔法が解けてしまいましたが、これも唸らせられる話です。

だって、いくら純粋に味を追求しても、おいしさというのは好みの大きいものですから、みんながおいしいと思う究極のラーメンなんて作れるはずがありません。

けどこのお店は普通のラーメンを究極のラーメンと思わせて、お客の舌(頭)を満足させたんですからね。

これこそまさに究極のラーメンだと、僕は思いました。



結局、そう思うことでしかそれは存在しようがありません。

完全無欠の言葉は願いの中に、究極のラーメンは胃袋の中に。



なんか中途半端に随筆風に書こうと思っちゃって気持ち悪い文になった一例。