かくれんぼ

 

 

 フランスでは必ずバカロレアという高校卒業終了資格試験に哲学が出る。多くの哲学者を出しているフランスでは教育では批判精神が大事で、教育の集大成として哲学があると

フランスに住む人から聞いたことがある。

 

 

 アメリカの大学入試では「あなたにとって水曜日とは」という小論文を書かせる。日本の大学でも「子どもの頃、かくれんぼうをしたが 大人になるとどうしてしないのか」などの小論文があった。

 

 

 「かくれんぼ」の小論文に私は何と答えるか。

 こういう問題にスルーしても人生は送れるから、だんだんと考えるのが面倒になった。それが第一。

 

 子どもの頃は大きな声を出した。忖度しないで何でも言えた。大人からすれば失礼なことも。

 

 でも、小さいながら隠れ場所や、鬼の拠点を狙う策略はあった。

 仲間全員同じことをして、隠れているけど、どこかにいるという安心感があったはずだ。

 

 公園にも遊具にも、隠れる場所があった。家ならカーテンでも、机の下でも、犬小屋でも。

 

 

 

 いや、ちょっと論点がずれているか。何を柱として書いていくかを整理しなければならない。

 

 大人になってしなくなったことは子どもの頃の反対である。大きな声も出さなくなり、忖度して、周りを気にするようになったからだ。

 

 人間関係があれこれ頭の中に入りすぎているから、体も頭も委縮し始めている。恥ずかしいという気持ちがある。いまさらという線引き。

 そして集団への期待の薄さ。熱量のなさ。

 

 皆がそうであれば「かくれんぼう」は成り立たない。

 

 

「かくれんぼう」は郷愁のまま、飴のように溶けて大人の自分を癒してくれれば、「かくれんぼ」は、そのまま力になるのだ。

 

 

 論点が絞れない。この調子では合格はいつになるのか。