薄に坊主

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春夏秋冬。日々とつおいつ、月白の随に…。

花札
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月一滴
月一滴 *The photograph is an image.

枡酒
枡酒 *The photograph is an image.



一人酒 すゞろ寄り添ひ 更ける夜の

くどくる月の ひとしづくかな



中秋の名月候付、月をば愛でつゝ一人酒をば酌み居り候。

之、今宵くどくる月の一滴かと思ひ候へば、何とも色気有之候哉。

日本酒には塩が好く合ひ候也。




月(1)(つき、英: Moon、羅: Luna)

月とは、地球の唯一の衛星(地球を回る天体)である。太陽系の衛星中で5番目に大きく、地球から見ては太陽に次いで明るい。

古くは太陽に対して太陰とも、又、日輪(=太陽)に対して月輪(がちりん)とも云う。
太陽系の中で地球に最も近い自然の天体であり、人類が到達した事のある唯一の地球外天体でもある。

地球から見える天体の中では太陽の次に明るく、白色に光って見えるが、これは自ら発光しているのではなく、太陽光を反射したものである。

概 要
月は天球上の白道と呼ばれる通り道をほぼ4週間の周期で運行する。白道は19年周期で揺らいでいるが、黄道帯と呼ばれる黄道周辺8度の範囲に収まる。月は、ほぼ2週間ごとに黄道を横切る。

會津暦暦と月の関係は近代に至るまで密接であった。
「月の満ち欠け」を元に決めた暦は太陰暦と言い、地球から月を見ると月の明るい部分の形は毎日変化し、約29.5日周期で同じ形となっており、この変化の周期をもとに暦を決めたものである。
歴史的に見れば、元々太陰暦を採用していた地域の方が多く、現代でも太陽暦と太陰暦を併用している文化圏がある。
日本でも、明治5年迄は太陽太陰暦を主として使用していた。

明治5年に公的な制度を変えた段階でこれを「旧暦」と呼ぶようになったが、その後も長らく旧暦のカレンダーは販売され、両方を併用する人々は多かった。
因みに、日本語では暦を読むことを「月を読む」「ツキヨミ(ツクヨミ)」「月読」と言った。暦と言えば近代まで太陰暦であった為、暦を読むとは、即ち月を読むことであった。

月食月 食
月食とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月に掛かる事によって月が欠けて見える現象の事である。日食と違い、月が地平線より上に見える場所であれば地球上の何処からでも観測出来る。
月食の連続写真動画全ての部分が本影(地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を皆既月食 (total eclipse)、一部分だけが本影に入る場合を部分月食 (partial eclipse) と言う。
尚、月食は望(満月)の時に起こる。

月の影響
月の重力は地球に影響を及ぼし、潮の満ち引きを起こす(潮汐作用)。尚、月よりも格段に大きい質量を持つ太陽も潮汐作用を起こし地球に潮汐力を及ぼすが、地球からの距離が月より遠距離にあるため、その影響力は月の力の半分程度である。

月見団子(1)月 見
月見は主に旧暦8月15日から16日の夜、日本では旧暦9月13日から14日の夜にも行われる。
古くから中国や日本では月を愛でる慣習があるが、名月の日に月を鑑賞する風習の始まりは、唐代の頃からということしか分かっていない。
宋代の『東京夢華録』には身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子が記録されている。
この風習が貞観年間(859年-877年)の頃、日本の貴族社会に入って来た。

平安時代の月見は徐々に規模が大きくなり延喜19年(919年)には宇多法皇が日本独自の十三夜の月見を催したが、当時の日本での月見は詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌むといった雅味な催しで、庶民とは縁のないものだった。

室町時代に入ってからも名月の日は続いたが、遊宴としては簡素になり、室町後期の名月の日には月を拝み、お供えをする風習が生じていた。
『御湯殿上日記』には後陽成天皇が茄子に開けた穴から月を見て祈る「名月の祝」という祝儀の様子が記録されている。

月見が世俗化した江戸時代前期の記録によれば、十五夜の日は芋煮を食べて夜遊びをするのが一般的であった。
その頃の庶民の月見には月見団子などの供え物の記録は見られず、家庭で供え物が行われるようになったのは中期以降のことと見られている。
江戸後期の風俗記録である『守貞漫稿』には、十五夜の日は文机で祭壇を拵え、江戸では球形の、京阪ではサトイモの形をした月見団子を供えると記録されている。

竹取物語日本の伝統
「古事記」では黄泉の国から戻ったイザナギが禊を行った時に右目を洗った際に生まれたツクヨミ(月読の命)が月の神格であり、夜を治めるとされる。同時に左目から生まれたのがアマテラス(天照大神)で、太陽の女神である。

「竹取物語」では竹から生まれた絶世の美女『かぐや姫』が、自らを月の出身と明かし、やがて迎えに来た使者に連れられ月へと帰って行く。

他に、「今昔物語集」の天竺部に記されている「三獣、菩薩の道を修行し、兎が身を焼く語(こと)」という説話の結末で、帝釈天が火の中に飛び込んだウサギを月の中に移したとされており、日本では月にはウサギが住んでいるという云い伝えがある。


季語としての月
月は、春の花に対して、秋の季語である。また、秋の月を賞し、月に物思う心は古くから和歌に詠まれている。
木の間より もりくる月の かげ見れば 心づくしの 秋は来にけり
 (詠み人知らず 「古今和歌集」)
月見れば 千々にものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど
 (大江千里 「古今和歌集」)


参考文献

・月のきほん(誠文堂新光社/白尾元理)
・月の科学(ベレ出版/青木満)2008年。


歌
日に忙はし
日に忙はし *The photograph is an image.

思草(1)
思草 *The photograph is an image.



日に忙はし しづこゝろなく 燻らせば

空と消えにし 思ひ草かな



近頃は、何かと多忙を極むる日々をば過ごし居り候。

野暮な用件が一つ片付いたかと思ひ候へば、又一つ、更に又一つと遣る事が増え、仕舞ひ山積みとも相成候付、旧國鐵をば乗り継ぎ夜毎遅くに帰宅為て候へば、申し訳程度に飼ひ猫の頭等撫でつゝ酒をば喰らひては、只管に寝るだけに候。


日頃の抛たらかしを熟申し訳無く思ひ候へば、せめて非番の日だけでも存分に構ひて候哉と飼ひ猫の機嫌を窺ひつゝも、案の定、朝から又酒をばかつ喰らひては居眠れる始末に候へば、飼ひ猫には相当恨まれて居るに違無之候哉。

つい先日に正月を迎へた許りと思ひ居て候共、まう年の瀬に御座候也。




ナンバンギセルナンバンギセル(南蛮煙管、Aeginetia indica)
学名:Aeginetia indica L.

ナンバンギセルは、ハマウツボ科ナンバンギセル属の寄生植物で、イネ科の単子葉植物(イネ、ススキ、サトウキビ等)の根に寄生する。葉緑素が無く、寄主の根から吸収した栄養分に依存して生育するため、寄主の生長は阻害され死に至ることもある。
別名を『思い草』と言い、万葉集の歌でも詠まれている。

形態・生態
日本を含むアジア東部、アジア南部の温帯から熱帯にかけて生育する。
全長は15-50cm。葉は披卵形、長さ5-10mm、幅3-4mm。

ナンバンギセル(sub2)花期は7-8月、赤紫色の花を1個付ける。
花冠裂片の縁は全縁。花冠は筒型で、唇形になる。
雄蕊は黄色の毛が密生している。
蒴果は球状で、種子の大きさは0.04mm。
染色体数は2n=30。

同属のオオナンバンギセルに似るが、本種の方が小型である。
また、本種の萼の先端は尖るが、オオナンバンギセルの先端は鈍くなるという点も異なる。

利 害
ススキ等の雑草の成長を阻害するため、ナンバンギセルによる生物的除草効果の可能性が示されている一方、陸稲にナンバンギセルが寄生する事で、イネの収量が減少するという被害が報告されている。

煙管(3)名称の由来
1600年頃(江戸時代)にポルトガル等の南蛮船によりタバコが渡来。
スペイン人宣教師が織田信長や徳川家康にタバコを献上してから、タバコが急速に普及する。

その時代、スペイン人やポルトガル人を「南蛮人」と呼んでおり、南蛮人の使用していた陶器製のパイプがこの花の様子に似ていることから「ナンバンギセル」と名付けられたと云われている。

別 名
ナンバンギセルは別名を『思い草』と言い、万葉集の歌でも詠みこまれていた。
和歌の上で思草は「忍ぶ恋」を表しており、俯き加減に咲くこの花を、恋に思い悩む女性に見立てていたと考えられる。

変 種
・ヒメナンバンギセル(Aeginetia indica L. var. sekimotoana (Makino) Makino)


参考文献

・黒木晴輝、首藤三吾、田畑旬子、田島良男(1970)「ナンバンギセルによるススキの生長阻害(予報)」鹿児島大学農学部演習林報告 Vol.2 pp.67-69
・小見川由美、竹内安智、小笠原勝、近内誠登、竹松哲夫(1992)「ナンバンギセル種子の発芽に関する研究」雑草研究. 別号, 講演会講演要旨 (31), p.192-193
・Flora of China (1998) 18: pp.229–243
・滝元清透(1959)「陸稲に及ぼすナンバンギセルの被害」日本植物病理學會報 24(1), p.50



歌
戀月夜
戀月夜 *La photographie est une image.



出でし野の 花も朧の 戀月夜

今宵の人そ 待つばかりなり



時の廻り候はば、縁も又廻り候哉。

僅か一年半許りの間、立て続けに幾疋もの飼ひ猫を失ふ不幸に見舞はれ候共、先日一疋の三毛猫をば貰ひ受け候由、己が家中、俄かに賑やかさを取り戻し候。

此の三毛猫、好くも人に懐き居り候へば、毎夜の如く同衾候は云ふに及ばず候。

今宵も月明かりの下、三毛猫が床に入り来るを待つ許りに候也。




与謝野晶子与謝野晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ)
1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日

日本の歌人、作家、思想家。
本名与謝野 志よう(よさの しょう)。
旧姓は鳳(ほう)、夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
女性の官能を大らかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。
『源氏物語』の現代語訳でも知られる。

1921年(大正10年)、夫・鉄幹と共に文化学院創設。
尚、ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取ったものである。

略 歴
鳳志ようは、老舗和菓子屋『駿河屋』を営む父・鳳宗七と、母・津祢の三女として堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の堺市堺区甲斐町西1丁)に生まれた。
駿河屋当時、家業は没落しかけており、また、3人目の女子であった為に、両親からは疎まれて育つ。実兄には、後に電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴や三味線を習っている。
堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると、『源氏物語』等を読み始め、古典に親しむようになり、やがて兄の影響を受け、『柵草紙』(後には『めざまし草』)、『文学界』や紅葉、露伴、一葉等の小説を読むのが一番の楽しみであった(『明星』1906年年5月談)。

みだれ髪20歳頃より、和歌を投稿するようになる。
浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で、歌人の与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。

翌年、家を出て東京に移り、女性の官能を大らかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行する。
後に鉄幹と結婚、子供を12人出産(うち1人は生後2日で亡くなっている)している。

1904年(明治37年)9月、『明星』に『君死にたまふことなかれ』を発表。
1911年(明治44年)、史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿する。
1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行く事となり、洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また、『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。
同年5月5日、読売新聞が『新しい女』の連載を開始しすると、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じている。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。
帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』では、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である」と、女性教育の必要性等を説いた。

1921年(大正10年)に建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、夫の鉄幹らと共に、お茶の水駿河台に文化学院を創設。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。
後に文化学院女学部長に就任している。

与謝野晶子原稿子沢山だったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職に就く迄は夫の収入が全く当てにならず、孤軍奮闘した。来る仕事は全て引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いして貰っていたと云う。
多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女達と共に開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。
『源氏物語』の現代語訳『新新訳源氏物語』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。

1940年5月、脳出血に因り右半身が不随になる。
1942年(昭和17年)1月4日に意識不明となり、同年5月に死去。享年63歳。
墓所は多磨霊園にある。

業 績
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。また、『源氏物語』の現代語訳でも知られる。

歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能を大らかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。
伝統的歌壇からは反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け歌壇に多大な影響を及ぼすと、所収の短歌に因み「やは肌の晶子」と呼ばれた。

文化学院(1)晶子が34歳の時、『新訳源氏物語』を四冊本として出版したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、また、校訂に当たった森鴎外は『源氏物語』の専門家ではなかった等、欠陥が多いものであった為に最初から書き直したが、漸く完成を目前にした頃に関東大震災に遭い、文化学院にあった原稿が灰になってしまう。
再度一から書き直し、更に17年を費やして6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。

評論活動
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、やがて評論活動を始める。

その評論の多くは『女性の自立論』と『政治評論』とに分類できるが、後に教育問題等についても評論している。


著 作
・定本 与謝野晶子全集 全20巻(講談社、1979年-1981年刊)
・みだれ髪(新潮文庫)
・みだれ髪 附=みだれ髪拾遺(角川文庫クラシックス)
・全訳源氏物語 上・中・下(角川文庫クラシックス)・大活字版『ザ・源氏物語』全文対訳(第三書館)
・梗概源氏物語(武蔵野書院)鶴見大学文学部、池田利夫 編
・蜻蛉日記(平凡社ライブラリー)与謝野晶子 訳
・与謝野晶子歌集(岩波文庫)
・与謝野晶子評論集(岩波文庫)
・愛、理性及び勇気(講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ)
・女人創造 叢書 女性論(大空社)
・与謝野寛晶子書簡集成(八木書店)
・私の生ひ立ち(女性文庫/学陽書房)竹久夢二 挿絵/(刊行社)
・童話 環の一年間(和泉書院)


代表歌

髪五尺 ときなば水に やはらかき 少女ごころは 秘めて放たじ
清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵逢ふ人 みなうつくしき
柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 悲しからずや 道を説く君
なにとなく 君に待たるる ここちして 出でし花野の 夕月夜かな

墓 所

多磨霊園
〒410-0867 東京都府中市多磨町四丁目628番地 TEL.042-365-2079
戒名は『白桜院鳳翔晶輝大姉』

記念館

・さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館
〒590-0958 大阪府堺市堺区宿院町西2丁1番1号 TEL.072-260-4386 / FAX.072-260-4725
E-Mail:info@sakai-rishonomori.com 
http://www.sakai-rishonomori.com/



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