江戸川大学ライフデザイン学科2年 0822807 李 軍

 この本は鳥も虫もいなくなってしまい、冬眠からさめた虫や鳥動物達の鳴き声が聞こえない静かな春となったという見出しから始まっている。読んでいくと化学薬品である殺虫剤などを使い続け、挙句の果てに鳥や虫が死滅してしまうと言う事を訴えた事だとわかる。

 鳥は勿論虫を食べ、化学薬品に汚染された虫を鳥が食べいきつく先は人間への影響までの仮定がこと細かく述べられている。

 殺虫剤はもともと人と人との戦いに用いられた兵器であり、虫や鳥を殺すために開発させたのではない。その後、有害虫の農作物への悪影響を避けるために改良された物である。ここ最近では、ベトナム戦争で化学兵器として「枯葉剤」なる物が大量に撒かれているが、勿論この本では触れられていない。人間を殺す為につくられた物、これは殺虫剤ではなく殺人兵器にもなりうるというのは基盤の時点でもわかることである。虫や鳥に影響を及ぼすのに、人間に影響がないというのはもちろんありえない話である。

現在、殺虫剤のDDTとは、中国とインドの一部で生産されているジクロロジフェニルトリクロルエタンの略である。1971年に、日本ではすでに農薬登録が失効され、現在では殆どの製品に使用されていない。戦後の日本では、アメリカからの物資援助と共に使用され、多くの人々の役にたったと言う事である。

 殺虫剤の使用は、恐らく今後もなくならないだろう、人間は虫が嫌いだからだ。なぜ虫が嫌いなのか、素直に物言うと、私たちの感覚の中には、「気持ち悪いから」、「生きている意味がないゴミ」、というような表現がされるように、とにかく虫が嫌いである。その上、農作物への悪影響があるとなると、黙ってはいない。空から地面から一斉射撃を行い、全滅作戦を決行して、食べ物を守りお金を作る。もちろん、これは利用するビジネスも存在しているし、多くの人は悪いことと思わない。

自分の命を守る為であれば、人間同士が殺しあう世の中で、虫や鳥の命などはどうであろうか。まったくと言っていいほど眼中にはない。自然破壊は、もともと人間による人間の為によるもので、前代が作りあげた資産と比例して、今責任を問われるとはまったくおかしな話である。

実体験をあげると、私自身も殺虫剤を使用、部屋にゴキブリがでた時はスプレータイプの物を使用し霧状に噴射し、虫との距離をとって殺せる便利な物だ。また、蚊や羽虫にも似たようなものを使う。この際、やはり霧状に噴射されるので、家具や畳に付着しているものの、虫との勝負に勝てたことへの安堵から、気にもしない事が多いと思う。

つまり農薬散布などでも、同じ事が言えるのではないだろうか。自分の収入源である農作物が、虫によって不作となり、生活を脅かせれたとしたら、現在悲しいことである。なにをするにもお金が必要な時代だからである。電気・水道・ガス、学校、食事など、お金を使わなくていけない現状。いやお金を使っての生活に慣れた、というほうが正しいと思う。もちろん便利なものを手にいれたあと、前の不便に戻ろうとしない。この農薬使用は、はっきり言うと、当たり前のことであり、我が身や人々の事を考えると、食糧難に陥るよりは、殺虫剤を使用したほうが良いという結果に誰しもが反対はしないだろう。

 カーソンは、本中で突然変異を起こさせない為にも、最善は大量の殺虫剤のしようを避けて最低限の使用にするべきだと訴えている。これに従い、すぐに使用を禁止してしまったのには疑問が残るが、恐らく何者かの利益の為による物だと推測ができる。

そもそも薬屋やスーパーなどで、簡単にこうした殺虫剤が手に入る世の中で、使用を控えるというのも難しい事であることはわかる。綺麗に陳列された物の中には、子供でも簡単にあつかえてしまう兵器が、たやすく手に入るのだ。また、水に流れれば、汚染はさらに拡大して、魚などの水中生物にも影響がでる。

私は殺虫剤の不使用は不可能と考えている。もう後にはもどれず、どんなに研究がすすんでも、人体に影響がまったくないもはないと考える。残る手段としては、いかに人体への影響を少なくするか、または己自身が免疫をつけるかである。

人間は人間を死滅に追いやる、核兵器という殺虫剤をも作りあげる生き物である。率直なことを言うと、自分も人間側の考えの方である。大量に殺虫剤を使うのは、悪影響の範囲をさらに大きい物にしてしまうと考える。但し、人類の生命が危険にさらされるのであれば、最小限使うべきである。利益を脅かされるのならば、利益を少し減らす覚悟も必要となり、多くのひとは利益を最重要とするだろう。

 この本を読んで、まず思ったのが、時代のずれよる違和感、昔の話をきいているような感覚があった。次に専門用語の多用により、分からない言葉が多く、戸惑いながらも、興味と使命感から調べてみていくうちに、色々な事実にでくわして、正しい事はなんなのかという疑問もいだいだ。

 また、かなりの長文だったので、すべてがすべて頭には入らず、焦らないでじっくり読み直すことも必要だと感じた。ただ、恥ずかしいながら、現在の自分の生活には、このような余裕はなく、時間も理解力も少したりなかったと自負している。そのように考えていると、人間はもうお金という、自分達で作り上げた農薬に汚染されきってしまったのではないかとすら考える。

 自分の町から鳥が消えてしまったとしても、もともと他の雑音、騒音にかき消されていたものなので、気づくこともないと考える。このような環境に関する話は、どれもが人間が悪者で、最終的につけが自分に帰る、というストーリーが多く、解決方法を論じてもアクションを起こさない事が多い。

カーソンは、見事に、後の世に多大な影響を及ぼした事はとてもすごい事だと思った。このように、頭で考えることも大切なことであるが、行動に移す人々が少ないと思う。いつの日か、自分達が重い腰をあげることができなかった事を、後悔する日がくるのだろうか。そんな怖さや虚しさを感じさせられた作品だった。