日本に関心を持ち、
時間をかけて言葉を学び、
その言葉で思いを伝えようとすることは、
私にとってとても大切な行為だ。
けれども、日本語で話し始めると、
しばしばすぐに返ってくる言葉がある。
> 「日本語、上手ですね。」
もちろん、悪意があるわけじゃない。
むしろ好意や礼儀、相手への配慮から出てくる言葉だとわかっている。
でも、それでも、私はこの言葉に対してどこかモヤモヤした感覚を拭いきれない。
内容を聞く前に評価されるという違和感
例えば、私は何かを真剣に伝えようとしている。
自分の感情や考え、経験を言葉に乗せて届けようとしている。
その途中で突然、
**“発音うまいね!” “日本語上手!”**と言われると、
会話がスッと途切れたような感覚になる。
> 「ああ、私が何を言おうとしていたのかは、
まだ伝わっていないんだな。」
それはまるで、
文章の表紙だけを見て「いい本ですね」と言われたような感覚。
「評価」よりも「共感」がほしい
私が欲しいのは、文法の採点でも発音の評価でもない。
「あなたの言葉に何かを感じた」
「その経験、少しわかる気がする」
そういう共感や反応が、もっとも嬉しい。
たとえ日本語が完璧でなくても、
文法を間違っても、
伝えようとする気持ちと、それを受け取ってくれる態度のほうがずっと深い。
言語はコミュニケーションの「手段」であって「成果物」ではない
言語は評価の対象じゃない。
通じ合うための橋であり、相手に近づくための道具だ。
だから、その橋を渡ろうと一歩踏み出した瞬間に
「上手ですね」と声をかけられると、
> “あなたはまだ向こう側にいて、
私はこの橋の途中にいるだけなんだな”
と感じてしまうことがある。
最後に
もちろん、「日本語上手ですね」が
すべて悪いとは思っていない。
会話のきっかけとしてはありがたい言葉だ。
でも、もしあなたがその先にも進みたいと思ってくれるなら、
その人が話そうとしていた“中身”にも、
ぜひ耳を傾けてほしい。