咎メ -中編- 2/4
あの大木にそっと剣を立て掛けたまま歩き出したことを、マルバスは気づかない振りをしてくれた。
不思議と身体は軽かった。
空っぽの記憶が私を不安にさせ、戦いの日々に葛藤し、胸の奥底に眠ったはずの思い出に、生きることの虚しさを突き付けられる人生。
終わったんだと思う。
生きることに不安を感じなくなった。暗く狭い箱にぎゅうぎゅう詰めにされたような感覚が消えて、心に余裕が生まれた。感情が溢れている。もうちょっと、生きてみたい。生きていたい。
何が私をここまで変えたのだろう。
軍を抜けたことだろうか。ミランダに助けられたことだろうか。ただ黙って歩いている、この人の後ろを歩いていることだろうか。
開き直りじゃなく、真に自分の生を受け入れる瞬間。諦めが消え、真の安らぎに包まれていたいと願えた瞬間。そのきっかけはたぶん、これぐらい些細で単純なことなんだと思う。それでいいんだと思う。
やっと見つかったんだ。
「なんか、いい場所だね」
木の陰から小さな動物達が顔を出し、小川のせせらぎが聞こえ、朝日に包まれた、この森を見渡して私はマルバスにそう言った。
黙って答えないマルバスの顔を覗くと、彼もこちらに顔を向けてくれた。
「そうだな」
心なしか、マルバスも肩の力が抜けているように見えた。私に生かされて何かが吹っ切れたのとは、少し違うように感じる。それが私と同じ変化を意味しているものだったならと、その想いは胸の奥にしまい込んだ。
「ここだ」
マルバスが立ち止まり、私も立ち止まる。生い茂った草花に囲まれて、その小屋は建っていた。
一際穏やかなその雰囲気を堪能する時間を私に与えているような気がして、マルバスが立ち止まった理由がそうだとすると、なんだか笑えた。
辺りを見渡し終えた私を確認すると、マルバスは小屋の入り口に向かって歩き出した。出来るだけ花を潰さぬようにと、私も彼の後を着いてゆく。
小さな五段の階段を登り、扉の前に立ち、マルバスはドアノブに手を置いた。
「あ、ちょっと待って。心の準備というか‥‥」
「大丈夫だ。二人とも信用出来る」
そう言いながらマルバスはドアノブをひねり、扉を開いた。
軋んだ蝶番の音を聞いて、机を間に挟んで椅子に座る二人の子供がこちらへと顔を向ける。
マルバスの翼に身を隠すようにしながら、私も小屋へと足を踏み入れた。
ミランダとは別の、まだ幼い男の子が、にこりと笑いながら立ち上がりマルバスを迎えた。
「マルバス!と‥‥誰?」
翼の隙間を覗き込むように顔を向けられ、私は反応出来ずに視線を斜め下に向けた。こういう状況には慣れていない。でも、天使が現れたのに襲いかかりはしないのだから、マルバスの言った通り信用は出来そうだ。
マルバスは隠れる私に気付き、私から距離を置いた。
ミランダは座ったまま、少し驚いた表情を私に向ける。
「あ‥‥」
あの時助けた人間が偶然目の前に現れたら、そりゃあ「あ」としか言えないだろう。
「えっと‥‥」
私も同じようなものだった。話を切り出すセリフを何かしら用意しておけばよかった。やっぱり、こういう状況には慣れていない。
私より先に、マルバスが口を開いてくれた。
「ミランダ。こいつはお前に」
「そんなことよりマルバス‥‥“この人”が、皆が言ってた『始祖』なのか?」
マルバスの言葉を遮り、男の子がそう言った。
どういう意味だろう?私が、始祖?いや、私とは別の誰かを指して言っているような気がした。でも、この場には私達4人しかいない。
混乱する私をよそに、マルバスは扉を後ろ手に閉めながら男の子に向けて言った。
「ああ。直前までバエルも生きていたようだ。鍵は受け継がれる。つまり、あとは流れに身を任せればいい。お前らも呼ばれたはずだ」
「うん。逆らえないのもわかってる。でも、どうしたらいいかわからないんだ‥‥」
逆らえない‥‥?察するに、二人は魔王の声に呼ばれたのだろう。逆らえないということはつまり、バエルやミランダ達より階級の高い者が現れたということ。始祖とは、その人のことを指しているのだろうか。じゃあ、鍵ってなんだろう?
私が関わっていい話ではない。私の要件なんかよりも、ずっと深刻な話をしているのだと感じた。私はしばらく、三人の話を黙って聞いていることにした。
「死に時を決めるのは自由だ。だが、もしお前らが天使としてその魂を終わらせたいのなら、蘇生した後のことを考えろ。お前らはまだ子供だ。ベレト達が近くにいた方がいい」
「でも‥‥また、あの千年間‥‥千年だよ?私‥‥」
ミランダは椅子から立ち上がり、弱々しい声でそう言った。
手が届きそうなものを前に、何か大きな苦しみに邪魔をされているような。わかるはずのないその感情を、何故か私も知っている気がした。
「ここで誰にも見つからず生き続ければ、それは永遠になる。ミランダ‥‥誰だって永遠が恐いんだ。そのために皆戦っているんだ」
淡々と言葉を発しているのに、マルバスからは終始、哀しみを隠しているような雰囲気を感じた。「案内が終われば俺を殺す約束だ」と言った、あの時と同じように。
「時間はない。決めるなら今だ」
不安なままの表情を互いに見合わせる、二人の幼い悪魔。
だけどミランダの表情は、その目に映る者を優しく包み込むような微笑みへと変わる。
「うん、決めたよ」
そう言って男の子は、マルバスへと晴れやかな顔を向けた。
「決まってたことだもんな。マルバスはどうするんだ?」
「俺はもう飛べない。それに‥‥俺にはまだやることがある」
「そっか‥‥行こう、ミランダ」
二人は歩き出し、その扉を開いた。
小屋を出る寸前、ミランダは立ち止まり、私の方へと顔を向けてくれた。
「あの‥‥」
長く話している場合じゃないことはわかっている。ただ、もう一度言いたかった言葉がある。その言葉に込める意味と気持ちも、あの時からは変わったから。
「ねえ、どうして私を助けたの?」
「え?」
少し考えた後、ミランダは答えた。
「自分でも、よくわからない」
「そっか。うん、安心した」
「安心?」
「やっぱり、理由なんていらないんだってこと。あなたに助けられたおかげで、私は人としてまともに生きられそう。‥‥ありがとう」
手を膝につき、前屈みになって目線の高さを合わせて、私はミランダの目を見つめながらその言葉を伝えた。
困惑気味な顔をしながらも、ミランダは少し嬉しそうに照れ笑いを残して小屋を後にした。
そして翼を広げ、二人は目的の場所へと飛び立った。
小屋に残ったマルバスへ目を向けると、彼は何かを考え込んでいるような様子で壁にもたれていた。
「‥‥話してくれる‥‥よね?」
もう、どうでもいいなんて言葉ではすませたくないんだ。彼らが何を思い、何を目指して生きてきたのか。何故、背徳に満ちた目をしながらも戦い続けてきたのか。生まれてから今までに抱え続けた、それらたくさんの疑問を。
そこから目を反らすのも嫌なんだ。溺れかけた私を掬い上げてくれた目の前のこの人が、こんなにも哀しみを湛えた心を抱えているのだから。
「‥‥少し、時間をくれないか」
壁にもたれたまま、マルバスは床を見つめながらそう言った。無関係な私に、話していいものかと悩んでいるように。
やっぱり、踏み込んではいけないことだったかな。
やがてマルバスは、まるで私にすがるような困った表情を向けながら言った。
「苦手なんだ。長い話は」
‥‥ああ、うん。
「お互いそういう性格だもんね」
そう言って私は、開いたままの扉の先に腰を下ろし、森の穏やかな景色を眺めた。
*