1988年『純影集』時期レスリー・チャン(張國榮)が手に持っているLD
nico7eのミニブログより
nico7eのコメント:
マーシャ・ノーマン(Marsha Norman)がピュリッツアー賞を受賞した作品の舞台を1986年に同名の映画にした《'night Mother》中国語題名は《晩安・母親》。(おやすみなさい、母)です。Leslieが手に持っていたのはこの映画のLD(laserdisc、LD)です。皆さん、時間を見つけて見てみてください。
(大意です。名前などを間違っているので訂正しました)
●レスリー・チャン(張國榮)の写真集『純影集』は
1988年07月23日に『純影集』公開招待記者會を行なっています。
●日本語題名は『おやすみ、母さん』 マーシャ・ノーマン
1983年ピュリッツアー賞を受賞 『おやすみ、母さん』( 'night, Mother ).1986年に映画化。
娘はキャシー・ベイツ、母親がアンバン・クラフト。
『 'night, Mother 』 (1986)
Sissy Spacek (Actor), Anne Bancroft (Actor), Tom Moore (Director)
日本では、DVDとかVHSの発売は無いようですし、映画の日本公開もされていないようです。
『 'night, Mother 』 (1986)DVD
●うーん、ピュリッツアー賞を受賞もしていて、
凄い評価が高い作品なんですけど、
レスリー・チャン(張國榮)ファンとしてはなんだか微妙な印象です。。
関係がないとはわかっていますけど、
1988年にこういう内容の映画を持って写真集に写っているのも暗示的ですねえ。。
●舞台化されたのが評判で映画化だったので、二人芝居の舞台作品として有名な作品のようです。
ちょうど2011年11月に日本でも舞台化されて、
東京・東池袋のあうるすぽっとで上演されます。
東京や兵庫で公演があります。
ネタバレでずっと下のほうに舞台の解説ありです。↓
■nico7e
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■おやすみ、母さん (劇書房BEST PLAY SERIES) [単行本]
マーシャ ノーマン (著), Marsha Norman (原著),
酒井 洋子 (翻訳)
単行本: 93ページ
出版社: 劇書房; 新装版 (2001/06)
ISBN-10: 4875745931
ISBN-13: 978-4875745938
発売日: 2001/06
商品の寸法: 19 x 13.4 x 1.4 cm
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
ジェシー・ケーツ。年令は、30代後半か40代の始め。セルマ・ケーツ、ジェシーの母親。50代後半か60代の初め。娘と母、登場人物はその二人。時は現在。劇的行動は8時5分頃開始し、10時には全てが終了する。舞台上の時計が、リアルタイムの時間を刻む。それは二人にとって抜き差しならない時間である。娘と母との細かな日常的なディテールに“死”の光りが当てられ、二人の人生そのものが浮かび上がっていく。愛と孤独、不安、希望、あきらめ、決意…。凝縮した時間の中の凝縮した人間の葛藤。強い衝撃と感動で、’83年度ピュリッツァー賞を受賞した問題作。
内容(「MARC」データベースより)
ジェシー・ケーツ。年令は、30代後半か40代のはじめ。セルマ・ケーツ。50代後半か60代のはじめ。登場人物は母娘二人。凝縮した時間の中の人間の葛藤を描いた、ピュリッツァー賞受賞の戯曲。1988年刊の新装版。
■『おやすみ、母さん』舞台
2011年11月26日(土曜日)~12月4日(日曜日)
作 : マーシャ・ノーマン
訳 : 酒井洋子
演出 : 青山真治
出演 : 白石加代子 中嶋朋子
http://www.majorleague.co.jp/stage/nightmother/story.html
ストーリー
「誰もが共有できる夢の体験」
ジェシーは40歳になる離婚した女性。
20歳を過ぎた息子がいるが、ぐれて家には寄りつかず、金をせびりに時たま現れるくらい。
今は母親と二人暮らし。
時々テンカンの発作が起きたりして、身体の調子もあまりよくない。
人生は嫌なことが多く、楽しいことは殆どない。
母親は60歳。伴侶はもういない。
よくしゃべり、よく食べ、都合の悪いこと、嫌なことは見て見ぬふりをし。耳を貸さない。
時計は、夜の8時半を指している。
舞台には、母と娘の二人だけ。
夕飯の後片付けが終わり、それから二人の細々とした日常的な時間があり、
10時になると、娘は「おやすみ、かあさん」と言って自分の寝室に入る。
ただその夜は一つだけ違ったことがある。
娘は「あること」を実行しようと決意している。
そして母親はそれを知ることになる・・・娘自らの告白によって
誰もがそう思っていても、実行はしない。
しかし、彼女は今、それを実行しようとしている。
膨大な思考の果てにたどり着いた、ひとつの結論。
これ以上、先に行くと、自分に対しての保証がない。
もっと嫌な自分を見てしまう。
最後の気力を振り絞って、それを実行する。
自分自身と愛と尊厳のためのぎりぎりの選択。
彼女は残された時間の中で最善を尽くそうとする。
その中で彼女は自分のイメージを燃やし尽くす。
この芝居には一見、ごく日常的でどこまでもリアルに描かれている。
この芝居を作者のマーシャ・ノーマンは、単なる一個人の特殊な出来事とみなさずに、
人間共有の夢想として体験してほしい」と語っている。
そして、今回の公演ではまさにその「誰もが共有できる夢の体験」として上演してみたい。
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■注意■解説がほとんどネタバレですが、それだけ有名な作品なのですね。
■「自殺するのよ、ママ。ピストル、2時間以内」
という言葉ではじまるドラマ。
離婚した娘が母親と二人で暮らしている。
何だかんだいいながら、母親にとっては娘は便利な存在である。
買い物とか、掃除とか洗濯は娘が全部やってくれる。
母親としては別に娘をこき使っているというわけではないけけれど、何となくそういう役回りなのだ。
娘はどちらかといえばいじいじ、ぐずぐずとしたタイプ。
間違いと後悔の連続の人生。
その共同生活はうまくいっているように思えたのだが、娘が突然、とんでもないことを言い出した。
「自殺するのよ、ママ。ピストル、2時間以内」
そして予告どおり、娘はどんな母親の説得の言葉にも耳を傾けずに、自分の決意を実行してしまう。
それでは「おやすみ、母さん」の魅力とは何だろうか。
この芝居にはストーリーというのは殆どない。母と娘の会話があるだけ。
しかしこの芝居には、一瞬とも目が離せない、本質的な何かがある。
生きていくというのは一体どういうことなのかという、誰もが抱えている避けて通ることが出来ない真実が語られているように思えるのだ。
ジェシーはなぜ、死のうとしているのか、一体彼女に何があったのか。
なぜ人生における希望は、いつのまにか諦めや絶望に変わってしまっているのか。
またなぜ生きる意欲や好奇心が、無感情な心や無関心な気持ちへと変わってしまうのか。
時間の中で、人間はゆっくりとみずみずしさを失っていく。
どこで道を間違って、出口のない袋小路に迷い込んでしまったのだろうか。
夫は人生を変えようと出て行った。彼女を置いて。
「なぜ?」という母親への問いかけに、「ママ、引っ越すのにゴミは持っていかないわ」と答える。
息子はどうしようもない不良。
「あの子は顔だって、話し方だってわたしに似てる。ただ違うのはあの子は世間と何とか互角になろうとしているだけ」
小さな小さな世界。そこにはただ日常があるだけ。
彼女はある日、通信販売のブラジャーを申し込む。薔薇の刺繍のついた可愛いブラジャー。それが間違って兄の家に届いて、兄と兄の嫁は大笑い。
そしていつかのクリスマスの日に何か決定的な彼女が傷つく出来事があったらしい。
「ママ、前はよくバスに乗ったわね。バスに乗ると暑いし、ガタガタ揺れるし、混みあうし、うるさいし、何が何でも降りたいと思うのに降りないのは目的地が50ブロックもあるからじゃない? でもわたしは降りたいと思ったらすぐに降りるわ。だってたとえあと50年乗ってから降りても降りたところは同じところだもの。いつでも気が向いた時、わたしは降りられる。もうこれで結構だと思ったら、それがわたしの停留所。もう結構よ」
この芝居の魅力はおそらく言葉である。
死が絶望が語られるが、それはある比喩を通してであり、その言葉には不思議なユーモアと美しさがある。
「この人生を変えることも、良くすることも、楽しく感じるようにすることもわたしには出来ない。もっと気に入って、もっとうまくやれるようにすることも。でも止めることは出来る。閉めてしまえる。切ってしまえる。何も聞きたいものがない時にラジオを切ってしまうように。これだけよ、わたしが言えるものは、だからそれがどうなるかはわたしが決める。そしてそれがもう止まるの。それをわたしが止めるの」
演劇とは結局言葉である。シェイクスピアが不滅なのも、言葉が素晴しいからだ。
「あんたはわたしの子だ」という母親の言葉に、娘は「あなたの子のなれの果てだ」と答える。
「古い赤ん坊の時の写真を見つけたわ。でもそれは誰か他の人で、わたしじゃなかった。それはピンクに太っていた、病気になったりさびしくなったらりせず、眠りたいときに目さえ閉じればいつでも眠った。いつでも寝ていて、顔の近くで振られるいろいろな色を見て笑い、水玉模様のクジラの枕をかじり、目覚めるとその日その日で新しいことを覚え、寝返りを打ってはシーツによだれをたらし、あなたの手がわたしの上の布団を引っぱるのを感じた。それが始まりのわたしで、ここにいるのがその残骸。そういうことなの。わたしがなくしてしまった誰か、そう、わたし自身。けっしてわたしじゃなかった人。あるいはわたしがなろうとしてけっして行き着けなかった人。わたしが待っていてけっして来なかった人。この先来ることもない。だから、ね、この世の中で、あるいはこの家の中でさえ何が起ころうと大した問題じゃないの。わたしはいつかはと待つ価値のあった人間、でも応えられなかった人間。わたしは・・・なんとか変えてみることが出来たかもしれないわたし・・・でもそのわたしは現われなかった。だからここにいなきゃならないこともない。あなたの相手をする以外には。それだって・・・いなきゃならない理由にはならない。だってわたしは・・・あまりいい相手じゃないから。でしょ」
演劇とは言葉を通して、自分とは何か、人生とは何かを解き明かそうとするゲームだ。あるいはそこに慰めや励ましを求める。
これらの言葉は死へと向かう言葉である。
しかし、その言葉は生きることへの慰めや励ましの言葉である。
演劇とは比喩と逆説から成り立った知的ゲームなのだ。
「おやすみ、母さん」が発表されたのが、1981年で、上演は大評判になり、1983年のピューリッツア賞を受賞している。出演者は母と娘の二人だけ。上演時間は休憩なしの、90分。その90分は、舞台上で母と娘が過ごす時間である。芝居が始まって、5分後に娘は母に自分が自殺する旨を告げる。母は、そんな馬鹿なことはやめるようにと説得するが、結局、有効な言葉を持てない。そして娘は予告通り、時間が来たからと自分の部屋に入り、鍵をかけ、ピストルの引き金をひく。極めて淡々とした時間。娘はいつものように母のために、洗濯をし、掃除をし、食事を作る。もしかしたらいつもよりいささか念入りに。
作者のマシャ・ノーマンは、この死に向かう絶望的なドラマに、不思議なユーモアと明るさをもたらしている。娘は死を決意することでやっと、自分を受け入れることが出来た。そして生き生きとした自分を何十年振りかで取り戻し、生を感じる。
確か、映画化されているらしく、娘はキャシー・ベイツと母親がアンバン・クラフトだった。
日本的にウエットにならないということがおそらく一番大事でだろう。母親がそれを聞いて、おたおたうろうろしてしまってはおそらく駄目だろう。母親はおそらく強い女だろう。馬鹿で愚かではない。その母親が引き留められないというのがこの芝居の大事なところだろう。そして娘も一見して今にも死にそうなひよわな女ではない。むしろ自殺なんか絶対に考えそうにないがっしりとタフなタイプ。病気になったり、怪我をしてもあんまり同情されたり心配されたりしないタイプというのがいるけれど、まさにそういうタイプ。生きることへの夢やあこがれを沢山もって生きてきた女、そして今もそれをもち続けている女。その女が死を選ぶ。「え、あんたそんなことを考えてたの!」という感じこういう芝居の場合、予定調和にならないということが大事である。自殺しようとしている娘が渡辺えり子、それを引き留めようとする母親が白石加代子。タフな二人。綱引きをするのだから両方とも力が強くないと面白くならない。
淡々とした時間だけれど、それは静かな、しかし過酷で激しくて残酷な母と娘の闘いである。あたかもドキュメンタリーのような、90分のリアルタイムのバトル。




