男装の麗人 川島芳子をめぐる生存情報が出てきた。
川島芳子の生存説は、国民党政府により「漢奸」(反逆通敵罪)として1948年(昭和23年)に北京で銃殺された直後からもう出ていて、長年、噂として話されていたことなのですが・・。
日本でも陸軍特務・吉薗周蔵の手記(真偽わかりません。ですが・・)で、生きていたという話しが浮上したりもしてます。
今回のニュースでは、遺骨を埋葬している話も出ていますので、
遺骨らしきものや埋葬したという場所が確定できるならば、
今の化学ならDNA鑑定などで、比較的簡単に真偽の確定をしようとしたら出来てしまうと思うんですけどね~。
それには、中国側がどこまで協力するか?だから、永遠に謎になるかもしれないけれど・・・。
中国政府としたら、当時の発表が嘘だったということになってしまいますから、メンツまるつぶれなことに協力するかなぁ?(笑
李香蘭として活躍していた元参院議員山口淑子さんがコメントされているのが、ちょっとビックリしました。
なんだか、こういう話しって「眉唾」と言ってすぐ否定されてしまうことが多いのに・・、不確定な中国情報にもコメントをされるほど、山口淑子さんは、川島芳子への思い出が強いのだろうなぁ・・。
山口淑子さんは、88歳でもまだとってもお元気なようなので、
元気なうちにいろいろな思い出話をもっともっと細かく書いた本を出してもらいたいな。
貴重な20世紀の貴重な生き証人です。
李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコード、日本風の絵画や関東軍関連の資料などのほか、銀製のかんざしやフランス製望遠鏡などは、
かなりのお金がある人でないと入手できない物ばかりですよね。
妹さんで、20年以上も刑務所と強制労働生活をさせられていた「清朝の王女に生まれて」の著者愛新覚羅顕琦(あいしんかくら・けんき) さんは、お元気なのでしょうか?
このニュースを聞いてどう思っているでしょうかね・・?
没後60年経ってもいつまでも日本と中国で話題になっていることに、
さびしがりやの彼女は満足してるのではないかなぁ~。
川島芳子と李香蘭が会った天津の中華料理店「東興楼」が今も存在していたら行ってみたかったです~。
●『東洋のマタ・ハリ』川島芳子 78年まで生存?
2008年11月16日 朝刊
【北京=池田実】旧日本軍のスパイとして一九四八年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が七八年まで中国吉林省長春で生きていたとの証言が飛び出した。同省の日刊紙、新文化報が十五日までに報じた。「男装の麗人」とも言われた芳子をめぐっては、処刑直後から替え玉説がささやかれていたが、新文化報は芳子生存を裏付ける証言などを連日のように報道している。
同紙によると、証言したのは長春市の女性画家、張〓さん。張さんの母は残留日本人孤児で、一歳の時に長春に住む男性の家に引き取られた。男性は二〇〇四年、八十六歳で他界したが、亡くなる直前、張さんに「小さいころ一緒に遊んでくれた方おばさんは川島芳子だ」と打ち明け、芳子が描いたという絵を託したという。
男性は戦時中、旧満州国警察局長の日本語通訳を務めており、芳子とも接触があったという。処刑場で芳子を別人にすり替え、男性は元同僚と三人で長春にかくまったという。
張さんは幼いころ、「方おばさん」から日本語や日本の歌を教わったが、教わった歌の中には芳子が作詞した「蒙古の歌」などもあったという。
男性が死亡した後、自宅壁に隠されていた箱が発見され、中から「方おばさん」が描いたという日本風の絵画や関東軍関連の資料などのほか、銀製のかんざしやフランス製望遠鏡など当時の中国では入手困難だったものも含まれていたという。
※〓は金に玉
↓『東洋のマタ・ハリ』川島芳子 78年まで生存?
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008111602000092.html
●川島芳子の「生存」示す書簡か=遺骨も? 救出者から愛人あて-中国
【長春(中国吉林省)17日時事】旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」川島芳子が処刑を逃れ、中国吉林省長春市で78年まで生きていたという証言をめぐり、芳子の消息を記したとみられる書簡と、遺骨とみられる燃えがらが見つかった。書簡は、証言をした張◆(金ヘンに玉)さん(41)が義理の祖父から託された七宝焼の獅子像の中から見つかった。芳子を救出した男性が、処刑されずに生きていたことを芳子の秘書で愛人だった小方八郎氏に伝えようとして書いたとみられる。
張さんから委託を受けて調査している吉林省の元芸術学校長、李剛さんが17日、明らかにした。獅子像は手のひらに乗るほどの大きさで、李さんが16日、張さんらの立ち会いの下、底の封蝋(ふうろう)を開けてみたところ、縦12センチ、横7.5センチの黄ばんだ紙が出てきた。紙には古書体の篆書(てんしょ)で「芳魂西天至未帰来国悲九州遠今奇才 秀竹 敬具 小方閣下 広幸」と読み取れる文字が書かれていた。
書簡は張さんの祖父と一緒に芳子を北京の監獄から脱出させた「秀竹」と呼ばれた男性が書いたとみられる。李さんは、「書簡は『芳子の魂は極楽にあるが、いまだ国(日本)には帰っていない』という意味に読み取れる。『秀竹』は、川島芳子が処刑を逃れて30年間生き、その後亡くなったことを小方氏に伝えたかったのだろう」とみている。(2008/11/17-18:59)
↓川島芳子の「生存」示す書簡か=遺骨も? 救出者から愛人あて-中国
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008111700690
------
●奇妙な縁に「心安らぐ思い」=川島芳子生存説に山口淑子さん
旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」川島芳子が処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春市で78年まで生きていたという証言について、旧満州で歌手兼女優の李香蘭として活躍し、芳子と親交があった元参院議員山口淑子さん(88)は18日、「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。
「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは16歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは13歳年上で、りりしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から30年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたのを思い出した」。「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。
清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。
「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。「78年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。(2008/11/18-17:26)
↓奇妙な縁に「心安らぐ思い」=川島芳子生存説に山口淑子さん
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008111800673
-----
●「立ったまま往生」=川島芳子?の最期で証言-中国
11月20日2時35分配信 時事通信
【長春(中国吉林省)19日時事】「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ、1948年に北京で処刑されたはずの旧日本軍のスパイ、川島芳子が処刑を逃れ、中国吉林省で78年まで生きていたと証言した画家の張※(※=金ヘンに玉)さん(41)が19日までに長春市で取材に応じ、芳子とされる「方おばさん」は「立ったままテーブルにもたれ、目を見開いて動かなくなっていた」と最期の様子を明らかにした。
張さんによると、78年の旧暦1月15日の元宵節(げんしょうせつ)の日、11歳だった張さんは日ごろかわいがってくれた方おばさんの同省四平市の家に遊びに行っていた。「刻みたばこを買ってきて」と言いつかり、買い物をして帰ってみると、方おばさんはつえを突いたまま動かなくなっていた。そこへ張さんの義理の祖父で、芳子の監獄からの脱出にかかわったとされる段連祥さん(2004年に86歳で死亡)がやってきて、死亡を確認。死因は肺気腫に伴う心臓発作だったという。
遺体は火葬され、張さんが遺骨を運んでいた時に雪道で転び、遺骨の一部を地面に落としてしまった。段さんから平手打ちされ、「祖父にぶたれたのは最初で最後だったので、よく覚えている」という。張さんは「方おばさんに日本の言葉や歌を教えてもらった。自分が画家になったのも、絵が好きだった方おばさんの影響かもしれない」と振り返った。
張さんの母で、残留日本人孤児として段さんの養女となった段続★(★=檠の「木」を「手」に)さん(64)は「2000年に養父から、方おばさんが川島芳子だと打ち明けられた。驚くと同時に信じられなかった。養父から口外しないよう言われていたので、娘ともこのことで話をすることはなかった」と述べている。 11月20日2時35分
↓「立ったまま往生」=川島芳子?の最期で証言-中国
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081119-00000216-jij-int
------
●川島芳子の処刑に関して吉薗手記
周蔵と親しかった藤山愛一郎は、昭和34年、岸内閣の外務大臣として訪中したが、それに先立ち、周蔵に懇請してきた。
「吉薗さんは、昔周恩来総理が日本におられた時、親しかった、と言っていたねえ。そこで頼みがあるんだが、この藤山なる男は吉薗周蔵の古い友人だと、周総理宛に一筆書いて頂けないか」
「承知した、書きましょう。ただ、周総理に会ったら、一つだけ聞いてきて欲しいことがある」
周蔵は承諾したが、条件を一つ出した。それは
「川島芳子は生きているとの噂ですが、本当ですか?」
と尋ねて欲しい、ということであった。
(中略)
芳子は男装をして「キミ、ボク」と甲高い声の男言葉で話し、多くの日本軍人を手玉に取った。その奔放な行動と満州建国における活躍から「東洋のマタハリ」と呼ばれた。その相手の一人甘粕から周蔵は昭和18年頃、芳子に関する驚くべき秘話を聞くが、その内容は後日語る機会もあるだろう。
戦後、国民党の戦犯裁判において芳子の国籍が問題となった。日本籍なら戦犯として裁判を受けられるが、中国籍なら漢奸(国家反逆者)として即時死刑を免れない。川島浪速が出廷証言しなかったことと、正式に
養子入籍していなかったことから、芳子は後者と断定され、昭和23年刑場の露と消えた、とされている。
(中略)
帰国した藤山外相は、周恩来の言葉通り周蔵に伝えてきた。
「そんなこと、答えられるわけがありません。ただ、吉薗先生には一言だけ『マルです』とお伝え下さい」
ということであった。
平成8年8月、外務省出身の某議員の言に、川島芳子が金条(延べ棒)5本によって死刑を免れ、以後は国内に軟禁されていたと聞いた。塚田という海軍関係の特務機関員から聞いたというのである。
(ニューリーダー 1997.10月号掲載分より)
http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/yoshiko.htm
↓「男装の麗人~川島芳子の生涯~」08年12月6日21:00放送
