共存とは何を意味するのか、他の生き物の存在を認める農法、自給とは自分とその家族が生きて行くのに足りる農産物を生産する農業のやり方である。詳しいことは追って書くことにする。

天海地すなわち気圏、水圏、地圏の三圏のバランスの上に存在するこの地球という星の一つに生き物が発生したのは何時頃だろう。その生き物と共に存在し、ある範囲のテリトリーを確保してきたのが人類であろう。しかし、近年その繁殖および増殖が著しくて、空気と水と土を汚して他の生き物の生存の場を奪ってきた。このような状況が加速すれば人類は早晩何らかの咎めを受けるであろう。


 先の大戦も戦雲危うい昭和19年(1944年)2月、父は前年の稲刈りもそこそこに30歳にして赤紙召集で中支(中国の中部地域)に出征市、身重な母は重労働がたたったのか7つきの早産で400匁(1600g)の自分を酷寒の日本の田園の畳の上の布団に産み落とした。超未熟児で暖房と言えば湯湯婆(湯たんぽ)くらいしかない自宅で、なんとか育ったのが不思議なほどである。後日聞いた話では、既に叔父さんは戦士されており、父も前線のとき、姉は三人いましたが男種子(たね、男子という意味)の切れる恐れもあり、祖父母の献身的な看護のせいもあって無事に育つ事が出来ました(感謝の涙が出ています)。

 

 戦後の20年の暮れには、私は飛び回るように育った頃、父は命からがら重い黄疸になり身も心もボロボロになって帰還しました。幼児期から少年期の自分が、父と折り合いのよくなかった原因だと思っています、その後

21年の12月には弟が生まれ、更にその下には妹が二人で七人姉弟妹の真ん中の長男で農家の跡継ぎとして厳しく育てられました。少年時代は家の手伝いをしつつ、田園を遊び回っていました。農業高校に行ってあと1年のとき、父なりに将来展望をし農業経営は自分の代までと決めた。 私はなんとかだいがくにはいり、人並み以上の教育を受けることができた(父母に大感謝です)。 


 大学3年生の10月にオリンピックがあって、アベベの走ったマラソンは見たが、この頃を境に日本が先進工業国の仲間入りを始めたのだと思います。生き物と共存していた農山村の暮らしがなりたたなくなったじきでもありますね。41年に公職について19年余り、養蚕近代化の人工餌のけんきゅうや園芸作物の病害虫の防除などのしごとをしましたが、近代農業のあり方について行けなくなったのと9年余り病んでいた父が他界したことなどを踏まえて41歳で退職して、以前より考えていた残された田畑をつかった「天海地一心」生物共存実験場(てんかいちいっしん いきものきょうぞんじっけんじょう)を昭和60年(1985年)の7月に予備開設し、翌年より開設して26年が経過した。そのかん、少しばかりの田畑では無農薬で無肥料または少ない施肥で育てる作物の栽培実験をしている。それらについては、当初より規模縮小し、体力に見合ったやり方で細々と続けたいと思っています。そのつれずれについて、これから発信していこうと考えています。

2月3日の19時過ぎに姫路駅を回りこんで、姫路城の夜景を見に行った。