息子と一緒に天気の子を新宿の映画館で見た際は、繊細に描写された東京の日常が輝いて見えて、わくわくしながら帰宅しました。
「鮮烈だったね」という以外は記憶も薄れた頃、無限列車騒ぎの中で「天気の子」が歴代ランキングで13位だと知りました。
そんなわけで、確定申告の準備をしつつテレビ放映を眺めることに。
…鬼滅の刃の解読をする熱意で見れなかった点も要因かもしれませんが、モヤモヤしてしまった。
画風も、二回見ると好みではないのがわかった。
子供が見る恋愛映画でしょ、って言えばそれで終わりなんだけど、映画ビジネスという枠組みに乗せて「無限列車編」が批判されてもいるわけですからね。
考えてしまった。
以下は、こだわり強めの一個人の感想です…。
率直に言って、鬼滅の刃を10回見た後での違和感は奇妙なほど。
空気の抜けたエアクッションを手にした気分でした。
映画館で魅了された精緻に描かれたガラパゴス東京の景観は、その時一度で魔法が消えたと気づきました。
映画館ゆえに光を放ったビジュアルは、パソコン画面での視聴では到底再現不可能、私にとっては、2回目はない映画でした。
映像美を失った物語の視聴後に残ったのは、子供っぽいコンセプトだったんです。
宮崎作品にあるような、大人が深読みする世界を子供にもわかるように、というものとは違っていました。
(この子たち、大丈夫?)
(それを愛って言っちゃうんだ?)
と、心に湧いてきてしまった。残念。
また、キャッチーなヒットソングとの相乗効果については、”炎”の完成度とは真逆に、負の作用に働いてしまった。
(あい〜にで〜きる〜こと〜… )
(????? あい?)って。
映画館では気にならなかったけれど、テレビ放映に当たり下手にエンドロール にメッセージを入れたものだから、歌がよけい浮いて違和感を際立たせてしまってない?
だって、そもそもですが、子供たちの選択が真逆に描かれているのだもの。
かたや、自分の心に鞭打って、忍従し、自己研鑽し、精神と肉体を磨いて統合を目指し、人のため、社会のために運命を背負う子供たち。
自己と多己、主観と客観が反転へ向かう修練がある。
その片鱗は、炭治郎の心象にも描かれていました。
一方で、人身御供を受容した少女を、「自己実現」的な愛を語りながら引き戻し(戻って)、地球規模の厄災に対して「大丈夫」と言いながらも大学を目指して受験勉強していた子供。
東工大なので、技術で環境を修復しようとしたのかもしれないとしても、覚悟も描かれず、安易すぎるポジティブ・シンキングにしか聞こえない。
(でもね、ジオ・エンジニアリングには私は反対ですが。)
映画自体は景観表現に長け、日本のディープカルチャーに紐づいたスピリチュアルなファンタジーでもあった。公開時点では上手い映画だったと思う。
新海監督の作品は、嫌いじゃないんです。だからあえて言いたくなった。
それが「無限列車編」のようなルーキーの豪速球、直球を原作とする渾身の映画を繰り返し味わったあとでは、その描き方も含めてまるごと古びて見えてしまったんですよね。
そもそも神様を直球で信仰として扱うことを好まない背景があると思います。
そのあたりは、神様を文化として表現し、(私としては)なんとなく遠回しでもどかしく照れ屋さん的な宮崎駿さんも似ているかもしれません。
(引退前に投げた直球にも驚いたのですが)
そして、「天気の子」放映に際して不幸な点は時代背景。
公開当時の社会状況の中で”予言”のように見えた展開も、イシューが変わった現在では、エッジーに見えた背景描写そのものが雲散霧消してしまった感じでしょうか。
さらにには、読解力が足りない、もしくは視聴者をみくびったスポンサーや代理店によるエンドロールはまさに自己満足でしかない、残念なものでした。
正直な感想として、この社会的混乱の時期に「天気の子(代理店自慢の新規エンドロール含む)」放映は、作品に微妙な臭みをつけてしまった、もしくは、作品の限界を演出してしまったように見えてしまった。
変にメッセージを入れないで、アニメ作品としての表現の面白さの中に留めていればよかったのに。あるいは、監督が作家なんだから、大学生となってより大人になったアップデートした主人公の目線でエンドロールを作ればよかった。
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そして、この違和感につられて出てきた苦い記憶があるのです。
非営利民間団体支援法が2000年に制定された頃、学生NPOが社会的に注目されたのですが、当時、注目を集めた大学生たちが
「ボランティアで無償なんて古すぎる。自己実現もかねてビジネスに繋げないとダメな時代です」
みたいなことを、熟練の、骨身をけずって活動してきた年配の先輩方に平然と語っていた、あの感じ。
新海監督はまさにその世代でもあって、私にとってジェネレーション・ギャップがあるかもしれませんが、同時に、国文学を学び、ことたま、日本の深層文化も学ばれていると思うので、これからも新作はやはり期待して見に行くでしょう。
無限列車観賞後に目についた、他の映画人たちのコメントも疑問を感じるものがちらほらと。
ついでに書いてしまおう。
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は大好きだったからこそ、ろくに見てもいない映画、読んでもいない本を遠回しにマウンティングした”惜しい守”さんは残念。
もう作品をみない気がする。
なんらかの理由でufotableは同業先輩に厳しい目で見られているのかしら?
評論が的を得ず、コロナで他の映画がなかっただの、特典商法、企業映画だのということしか言えない否定的批評家とか同業者、作品の本質を見ようともしないなんて、クリエイターとしてどうなの?
そして、その無限列車のダイレクトなメッセージは、エコ左翼のような輩には、むしろ届きづらいかもしれない。物語を受け止める場所が異なるから、食わず嫌いをする人々も少なくないでしょうし。
”ポスト無限列車”のアニメは大変ですよね、鬼滅の刃の続編も含めて。
それをマーケティングの力技で解釈、特典商法で踏襲可能など思っている人々は、義勇に習って心の水鏡を沈め、鬼滅の刃の背景世界を映しなおした方が良いですよ。
メッセージを魂レベルで受け止めた人々が、特典など関係なく心酔しリピートしているだろうから。
ここまでディスってしまって、何を言いたかったか自分でわかったのですが…。
デジタル画面と紙で味わっていた「鬼滅の刃」は、映画館の繊細な光によって別次元の輝きを放っており、それはDVDでは再現できないので繰り返し映画館に足を運ぶのです。
そのすべてがそれぞれ異なって愛しいというのが奇跡なんだなって思うのです。
何回も足を運んで恥ずかしがっているみなさんは、他の映画や他の趣味を慎んでも、何度も見る価値があるんだと思うんですよね。
神作ですもの。