この物語は完全なるフィクションです。
実在の人物をモチーフにしておりますが、実際の彼らには何ら関係ございません。
幾つかの偶然が重なって、何となくそうなっただけだ。
撮影の衣装はスーツだった。
それを、スポンサーからの好意で贈呈され、着替えるのが面倒だったので、そのままの格好でスタジオを後にした。
宿舎に戻ろうと運転していたら、事故渋滞にひっかかった。
道路は駐車場と化した有様で、少しも進まない。
溜息混じりに車の窓を開けると、心地良い風が入ってきた。
最近ぐっと気温が下がったソウルの街は、深まる秋の気配に包まれている。
早朝からの撮影だったから深夜の気分だったが、周囲はまだ日が暮れたばかりだとあらためて気付いた。
車道の脇の歩行者通路を歩いている人々を見ると、苛立つ気持ちを抑えながら車中にいるのが嫌になり、いっそ歩きたいと思った。
かと言って、車を捨てて行くわけにはいかない。
時速5キロ以下の運転で少しだけ進んだところで、パーキングの看板が目に入り、反射的にそっちへハンドルを切った。
車が無いと明日が不便だとわかっていたが、渋滞で疲れるよりマシだ。
通りには、そこそこ人が行き交っていたが、皆、帰宅を急ぐように足早に歩いていて、意外と注目されずにすんだ。
身長ゆえか数人に気付かれたが、幸い誰からも黄色い声をあげられることもなく、秋の散歩が出来た。
ここからだと、宿舎よりも恋人の部屋の方が近い。
歩きながら、そう考えた。
いや、本当は車を停める前からそう考えていた。
普通の白ではなく、かすかな虹色のヴェールをまとった白だ。
何気に一輪、手にとって眺めてみると、透明感のある白が照明を映してそう見えているのだとわかった。
ふと、自分だけの白を思い出した。
2008年のあの時、素肌に着た白い衣装が、とても良く似合っていた。
隣で「少し寒い」と言われて手を差し出すと、そっと握って嬉しそうに微笑んだ。
喜びの中、白をまとった愛する人を、強く抱き締めた。
花屋にあった全ての白い薔薇を買うと、大きな花束になった。
こんな物を持って歩くと目立ち過ぎると、頭ではそう理解しているのに、この白を他の誰にも渡したくないような気がして。
気をきかせた店員によって紙袋に入れられた花束を提げ、裏道を歩いた。
この辺りはあまり詳しくない。
恋人が最近、高級マンションを購入し、引っ越してきたばかりの場所だ。
少しの無理をしてまで、高すぎるマンションの購入に踏み切った目的は、プライバシーを万全に確保すること。
それが誰のためかは、良くわかっている。
だから、こういう目立つことはしない方がいい。
そうわかっているのに・・。
マンションの正面玄関を避け、地下駐車場への通路に駆け込んだ。
さり気ない風を装って人目のないことを確認し、植え込みに身を隠すようにした。
何の約束もしていないから、恋人が部屋にいるかはわからない。
先に電話をして予定を確認した方がいい。
それもわかっている、けれど・・。
渡されていたカードキーを使ってエレベーターのロックを解除し、ペントハウスフロアーへと上った。
しんと静まり返った廊下を足早に歩き、部屋の前に立つ。
チャイムを鳴らそうかと考えたが、留守の確率の方が高いと思い直し、合い鍵を使った。
広いペントハウスを奥へと進んで行くと、微かに音楽が聞こえて来た。
よく知っている曲だ。
ここ最近、嫌になるほど聞いている。
恋人はオーディオルームにいた。
部屋の入り口に背を向けて机に向かい、パソコンのモニターを見ている。
大きめのモニターが映し出しているのは、他ならぬ俺、新曲のPV。
「部屋に居る時はチェーンをしておけよ」
わざと不機嫌そうに声をかけると、恋人は驚いたように振り返った。
「どうして、ここに?」と、小さく呟く。
白い頬が、少しだけ、さっと上気した。
足早に近付いて、慌てて画面を閉じようとしていた恋人の手を押えた。
「何を見てた?」
そう尋ねながら肩越しに画面を覗き込もうとすると、相手は、まだ自由な方の手でモニターの電源を落とした。
「何でもない」
「何でもないなら、見てもいいだろ?」
後ろから抱きすくめて耳元で囁くと、恋人はくすぐったそうに肩を竦めた。
「・・知ってるくせに、ユノは意地悪」
不満を告げる声が甘い。
頬にキスをして、首筋に顔を埋めると、いつもの甘い匂いがした。
甘い声、甘い匂い、俺の恋人は何もかも甘い。
そして、恋人や友人を甘やかす。
甘くないのは、自分自身に対してだけだ。
もっと先へ進まなければならないと、応援に応えなければいけないと、いつも自分を追い詰める。
「それ何?」
「ああ、これか・・」
問いかけに応じて身体を離し、紙袋から花束を取り出した。
「お前にだ。通りの花屋で買った」
「・・え? ユノが?」
不思議そうに問われて、思わず苦笑が漏れた。
「悪いか?」
「・・・覚えててくれるなんて思わなかった」
「何を?」と聞き返してしまいそうになるのを意識して止めて、言葉の続きを待つ。
「今日は・・初めてユノと・・」
普段は白過ぎるほど白い恋人の頬が、薄い桜色に染まった。
そう言えば、初めて抱いたのは秋だった。
二人共まだ若く、恋人は怯えて泣きながら、それでも、拒むことなく俺を受け入れた。
最高の親友、もっともわかりあえる仲間、それ以上を望んだ俺に、懸命にこたえてくれた。
「ユノが好きだから。ユノだけが好きだから」
そう言った声は小さく、かすれていた。
「スーツと薔薇の花束なんて、らしくないよね。長い付き合いなのに、ユノがこんなロマンチストだとは知らなかった」
「涙の滲んだ瞳で憎まれ口を言われても、可愛いだけだ」
顎に手をかけて持ち上げ、柔らかな唇に軽く口付けた。
続いて仕掛けた深いキスの途中で、恋人が手をつっぱって身を離した。
「薔薇を・・花瓶にいけないと・・」
声が少し上擦っている。
お預けにされた不満を伝えるため、両肩を小さくあげてみせると、恋人は小さく微笑んだ。
「お腹すいてない?」
照れ隠しか、唐突に話題を変える。
「俺が食べたい物、察してるだろ」
「・・うん・・」
また、困ったように微笑む。
数えきれないぐらい身体を重ねても、こういうところは昔からずっと変わらない。
デビュー以来、人前では気さくでノリの良いキャラクターを出している恋人が、心から気を許した相手にだけ見せる、子供っぽさと、純粋なはにかみ。
今や堂々たるアーティストである恋人の、傷つきやすい無防備な姿、一途な愛。
それが自分にだけ向けられていることの喜びは、とてつもなく甘い。
「いい匂い。花瓶、どこ入れたっけ・・」
花束に顔を寄せて匂いを嗅ぎながら、小さく首を傾げる姿が可愛い。
「ごめんね、花瓶、急いで捜すね」
「ゆっくりでいい、シャワー浴びてくる」
そう言って身を翻したところを、後ろ手を取って引き止められた。
振り向くと、恋人の潤んだ瞳があった。
「シャワー浴びないで。これ、とりあえず水につけて、すぐ寝室に行くから」
「何で?」
意味がわからず問い掛けると、恋人は俯いた。
「・・・ユノの・・・スーツ、・・脱がしたい・・」
寝室のベッドに腰掛けて待ちながら、小さく十字を切って、最愛の恋人に小さな嘘をついた許しを乞うた。
本当は、今日が何の日かなど覚えていなかった。
初めての時の記憶は、季節と、小さく震えていた心細そうな顔。
そして、一つになった時に感じた、世界で一番大切な相手を手に入れたという強い気持ちだけだ。
これはきっと神からの贈り物だと、そう思うことにした。
秋の長い夜は、まだ始まったばかりだから。


