今日もmiyasukuで書きます。

 

とうに限界は超えていますが
最近は本当の意味で限界を感じます。

 

あとどれくらい生きられるかわかりません。
私の本当の気持ちを記しておこうと思います。

母への想い。

20代、30代前半と、人生の下積み時代を過ぎ
いよいよ、これからというときでした。

 

ALSと診断されたのは。

病気になる前は親孝行することが私の幸せでした。

 

朝6時には出勤に家を出ていましたから
毎朝5時に起床して

まだ寝ている母のために
朝食と昼食を用意していました。

 

当時65歳だった母。

まだ体が自由に動くうちにと
私が車を出して

よく一緒に銭湯に行ったり

買い物の手伝いに出たりしていました。

 

仕事で辛いことがあったときは母を想い

「俺が一生、面倒見るからな!」

と、それを励みにしていました。

 

 

私が幼い頃、父は事故で亡くなりました。

以来、女手一つで私を育ててくれた母。
苦労をかけた母。

 

私は結婚もしてなければ子供も無い。

家族は母だけだった。

最愛の母。

これからは親孝行して一緒に暮らしていくのを
生きがいにしていくつもりだった。

 

母が80歳くらいになるまでは
そうやって暮らして

それから先は本格的に自宅で介護して

 

やがて別れのときがやってきたら
毎朝お仏壇の前で手を合わせて
母に想いを馳せようと。。

 

 

ALSという病気は全てを奪っていった。

 

四六時中の痛い苦しい処置、自分という存在価値の葛藤、

尽きないヘルパー問題、伝わらない苦悩と絶望、

 

家族へかける大きな負担、心苦しさ、

止められない情動制止困難、消えてしまいたい自己嫌悪、

 

思い出すたび苦しくなる健康だった頃。

 

歩けた。喋れた。食べれた。

それがどれほどの幸せだったことだろう。

 

死を意識しながら生きる毎日。一時も心は安らげない。

 

 

今は70歳になる母に逆に私が過酷な介護をさせている。

 

病気の過酷さから私は最愛だったはずの母に
日々、暴言、罵詈雑言を浴びせている。

病気は私の人格を狂わせてしまった。

 

 

いいや、同じ病気でも本当に家族を想っている人なら
そんなことはしない。

 

 

私はクズなのだ。人間のクズなのだ。

 

 

命の選択を迫られたとき
母は私に生きるよう望んだ。

私は、ただ死にたくないという理由だけで
母の言葉に甘んじたに過ぎない。

 

愚かだった。私に生きる資格などなかったのだ。

 

生きる資格の無い人間などいないと

言ってくれる人もいるだろう。

 

残念だが、きれいごとでは通用しない。

 

私は生きる選択をした。

その重い決断をした責任を全く果たせていない。

 

結果、私の生きざまは酷く、凄惨なもので
もう目も当てられないことになっている。

 

自業自得、因果応報である。

 

 

最近は他の同病のブロ友さんの記事を見て
その立派な生き方を目の当たりにして
自分が情けなくなるばかりである。

 

 

お母さんへ。


病気になって、ごめんなさい。