You don't know
「ねぇ、あれを見てよ。あの魂、こっちでは、あんなに輝いていたのに、あっちの世界ではずたぼろだ。どうして、救ってやろう。」
厚みのある雲の上から下界をのぞいた、翼のある赤ん坊の姿をした金髪の巻き毛のほうがつぶやいた。
「いや、僕達は、何も手出しすらできないよ。」
そう相槌をうった赤ん坊もおなじように翼があった。黒い巻き毛をふうっとふきちらした赤ん坊の眼は、蒼かった。
「あーあ、どうして、あんなことになっちゃうんだろう。死んでしまえば、肉体などなくなって、心しかなくなるというのに。」
金髪の赤ん坊は、蒼眼の天使、ハッグに真向い、しゃがみこんだ。
ハッグは言う。
「ルチア、そう嘆くなよ。」
「肉体が朽ちることくらい、生きていれば分かるはずなのに、な。なくなるものを何故、追うのかな。心はなくならないのに。」
「それは、ばかだからだろ。神様からあんなに教え込まれえて、下界に転生したってのにさ、そんなことも忘れてしまうんだから。」
ハッグは大きくため息をついた。
「それは、ライラ姉さんが呪いをかけたからだ。あのひとは、いつもそうして何もかも忘れさせてしまう呪いをかける。」
「ライラ姉さんが、呪いをかけなかったら、もっとよくなったとでも?」
ハッグはいらいらしながら、問い詰めた。蒼眼の天使は、ライラが好きだった。
「ライラ姉さんが悪いとでも?ひとに忘却の呪いをかけるのは、ライラ姉さんの仕事だ。こっちの世界のことを忘れずにあっちの世界に行くことができた時代を、お前は忘れたのか?大天使たちが、その智慧を使い果たしたときのことを!あっちの世界を想うままに生きたあの時代を忘れたのかよ!」
ルチアは知っていた。あの時代に転生したライラの姉妹が、堕天使たちにそそのかされ、心にかげりをつくったことを。それに嘆き、自らの記憶すらも封じ、ひとの転生にまつわる忘却の世界システムと成り果てたことを。そして、あの美しきライラと、もう、言葉を交わせないことに、深く傷を負っていた。また、ひとを憎んでいた。身をのりだしてハッグを責めた。ルチアの眼には涙が潤っていた。
「ごめん、ライラ姉さんのせいじゃないよ。わかってるよ。だけど、僕の兄弟も、ほら
あそこにいるんだ。」
ハッグが指差したその先には、ひとりの男性がいた。ファッショナブルに仕立て上げられたスーツに身をまとい、運転手が待つ、黒塗りの車に乗り込んだ。
「ああ、政治家だっけ。」
「そうだよ。本当は、国を正しく導くはずだった。だけど、自分が導くんじゃなくて、周りに導かれちゃって、あのざまさ。迎合することで身を立てる、大ばか者さ。」
ハッグの眼にも涙が溢れていた。ルチアも、涙をおさえることができない。
どうして、ライラ姉さんを失うことになったんだろう。
どうして、ひとは忘れてしまうんだろう。
「これこれ、そこのふたり、おかげであの場所だけ、豪雨になってしまったではないか。」
白衣に身をまとった、灰色がかった青緑の眼の、茶色の髪をたらした男が近づいてきた。麻のサンダルをはき、穏やかな顔をして、ふたりに笑いかけた。
「キリスト様…ごめんなさい。」
素直にハッグは謝ったが、ルチアのほうはまだ、涙を貯めている。
「よくお聞き。この世界とあの世界は何が違う?」
「この世界でも違いはあるけれど、絶対的にあるのは、ときが流れていないこと。」
ルチアはまだ自分の感情を制御できずに、かわりにハッグが答えた。
「正解だ、ハッグ。では、ときが経てば、なにがゆらぐ?」
「肉体だろ」
うっとおしそうに、ルチアは言葉を吐き捨てた。
「それもそうだ、ルチア。だけど、肉体だけじゃないんだ。肉体が朽ち果てるとき、何がゆらぐんだね?大事なひとが死に、大事なひとと別れ、大事なものが成しえないことがわかったとき、お前達のように、ひとは、何がゆらぐんだね?」
「…こころ?」
ハッグが上目遣いで、とまどいながら、キリストに答えた。
「そうだよ。彼らは、心を揺らがせてしまう。今の君達のように。今は、君達はそこにいて、あるままに心を想わせることができる。だけど、ひとは、与えられた環境の中での出来事に、心を揺らがせたままなのだよ。偽りの世界を本当だと想いこみ、そして、心揺らぐ。それは、今、君達が涙を貯めたのと同じように。」
「だからって、間違ったことをしてはいけない!」
ルチアは、怒った。涙はもう、頬を伝っている。男は、ルチアの頬に手をおき、涙をやさしくぬぐった。そして、額にキスをした。
「そうだね、だけど、彼らは、そうまでに、本当はひとを愛しているんだ。あきらめきれないその想いを手離すことができずに、枕を涙で濡らし、愛をこらえているうちに、酒や異性に溺れていく。世界やひとを変えることはできないからね。自分を変えることはできても、ひとを変えることはできないと、わかっているからこそ、だ。」
ああ、と小さくうめいて、ハッグが顔をふせた。
ルチアはつぶやく。
「ぼくはわからないよ。」
ルチアの眼はまっすぐに、男をとらえている。
「どうして、だれか、を限定して、愛するの?愛ってそういうものじゃない。」
にっこりと笑ったその顔は、ルチアが可愛くてたまらないと伝えている。
「そうだね、だけど、ひとは、誰かを愛しすぎ、朽ち果てたとき、そうなってしまうんだよ。…きっと、絶望するのだろう。」
まっすぐにルチアを捕らえたその眼は、笑ってはいなかった。穏やかな所作に包まれるだけ、その眼は厳しかった。
「絶望し、希望を捨てる。それは、神を失うことと同義だ。」
また、ルチアが泣き出した。
「だからね、君達はそうして責めてはいけないよ。君達もまた、愛深きゆえに、失ってしまったものへの哀しみにとらわれることがあるだろう。また、さみしさもあるだろう。だからこそ、今ふたりが手をとりあっているように、愛したものへの想いとともに、手をとりあって、あるのだよ。愛を嘆くのではなく、愛を語るのだよ。」
「ねぇ、あれを見てよ。あの魂、こっちでは、あんなに輝いていたのに、あっちの世界ではずたぼろだ。どうして、救ってやろう。」
厚みのある雲の上から下界をのぞいた、翼のある赤ん坊の姿をした金髪の巻き毛のほうがつぶやいた。
「いや、僕達は、何も手出しすらできないよ。」
そう相槌をうった赤ん坊もおなじように翼があった。黒い巻き毛をふうっとふきちらした赤ん坊の眼は、蒼かった。
「あーあ、どうして、あんなことになっちゃうんだろう。死んでしまえば、肉体などなくなって、心しかなくなるというのに。」
金髪の赤ん坊は、蒼眼の天使、ハッグに真向い、しゃがみこんだ。
ハッグは言う。
「ルチア、そう嘆くなよ。」
「肉体が朽ちることくらい、生きていれば分かるはずなのに、な。なくなるものを何故、追うのかな。心はなくならないのに。」
「それは、ばかだからだろ。神様からあんなに教え込まれえて、下界に転生したってのにさ、そんなことも忘れてしまうんだから。」
ハッグは大きくため息をついた。
「それは、ライラ姉さんが呪いをかけたからだ。あのひとは、いつもそうして何もかも忘れさせてしまう呪いをかける。」
「ライラ姉さんが、呪いをかけなかったら、もっとよくなったとでも?」
ハッグはいらいらしながら、問い詰めた。蒼眼の天使は、ライラが好きだった。
「ライラ姉さんが悪いとでも?ひとに忘却の呪いをかけるのは、ライラ姉さんの仕事だ。こっちの世界のことを忘れずにあっちの世界に行くことができた時代を、お前は忘れたのか?大天使たちが、その智慧を使い果たしたときのことを!あっちの世界を想うままに生きたあの時代を忘れたのかよ!」
ルチアは知っていた。あの時代に転生したライラの姉妹が、堕天使たちにそそのかされ、心にかげりをつくったことを。それに嘆き、自らの記憶すらも封じ、ひとの転生にまつわる忘却の世界システムと成り果てたことを。そして、あの美しきライラと、もう、言葉を交わせないことに、深く傷を負っていた。また、ひとを憎んでいた。身をのりだしてハッグを責めた。ルチアの眼には涙が潤っていた。
「ごめん、ライラ姉さんのせいじゃないよ。わかってるよ。だけど、僕の兄弟も、ほら
あそこにいるんだ。」
ハッグが指差したその先には、ひとりの男性がいた。ファッショナブルに仕立て上げられたスーツに身をまとい、運転手が待つ、黒塗りの車に乗り込んだ。
「ああ、政治家だっけ。」
「そうだよ。本当は、国を正しく導くはずだった。だけど、自分が導くんじゃなくて、周りに導かれちゃって、あのざまさ。迎合することで身を立てる、大ばか者さ。」
ハッグの眼にも涙が溢れていた。ルチアも、涙をおさえることができない。
どうして、ライラ姉さんを失うことになったんだろう。
どうして、ひとは忘れてしまうんだろう。
「これこれ、そこのふたり、おかげであの場所だけ、豪雨になってしまったではないか。」
白衣に身をまとった、灰色がかった青緑の眼の、茶色の髪をたらした男が近づいてきた。麻のサンダルをはき、穏やかな顔をして、ふたりに笑いかけた。
「キリスト様…ごめんなさい。」
素直にハッグは謝ったが、ルチアのほうはまだ、涙を貯めている。
「よくお聞き。この世界とあの世界は何が違う?」
「この世界でも違いはあるけれど、絶対的にあるのは、ときが流れていないこと。」
ルチアはまだ自分の感情を制御できずに、かわりにハッグが答えた。
「正解だ、ハッグ。では、ときが経てば、なにがゆらぐ?」
「肉体だろ」
うっとおしそうに、ルチアは言葉を吐き捨てた。
「それもそうだ、ルチア。だけど、肉体だけじゃないんだ。肉体が朽ち果てるとき、何がゆらぐんだね?大事なひとが死に、大事なひとと別れ、大事なものが成しえないことがわかったとき、お前達のように、ひとは、何がゆらぐんだね?」
「…こころ?」
ハッグが上目遣いで、とまどいながら、キリストに答えた。
「そうだよ。彼らは、心を揺らがせてしまう。今の君達のように。今は、君達はそこにいて、あるままに心を想わせることができる。だけど、ひとは、与えられた環境の中での出来事に、心を揺らがせたままなのだよ。偽りの世界を本当だと想いこみ、そして、心揺らぐ。それは、今、君達が涙を貯めたのと同じように。」
「だからって、間違ったことをしてはいけない!」
ルチアは、怒った。涙はもう、頬を伝っている。男は、ルチアの頬に手をおき、涙をやさしくぬぐった。そして、額にキスをした。
「そうだね、だけど、彼らは、そうまでに、本当はひとを愛しているんだ。あきらめきれないその想いを手離すことができずに、枕を涙で濡らし、愛をこらえているうちに、酒や異性に溺れていく。世界やひとを変えることはできないからね。自分を変えることはできても、ひとを変えることはできないと、わかっているからこそ、だ。」
ああ、と小さくうめいて、ハッグが顔をふせた。
ルチアはつぶやく。
「ぼくはわからないよ。」
ルチアの眼はまっすぐに、男をとらえている。
「どうして、だれか、を限定して、愛するの?愛ってそういうものじゃない。」
にっこりと笑ったその顔は、ルチアが可愛くてたまらないと伝えている。
「そうだね、だけど、ひとは、誰かを愛しすぎ、朽ち果てたとき、そうなってしまうんだよ。…きっと、絶望するのだろう。」
まっすぐにルチアを捕らえたその眼は、笑ってはいなかった。穏やかな所作に包まれるだけ、その眼は厳しかった。
「絶望し、希望を捨てる。それは、神を失うことと同義だ。」
また、ルチアが泣き出した。
「だからね、君達はそうして責めてはいけないよ。君達もまた、愛深きゆえに、失ってしまったものへの哀しみにとらわれることがあるだろう。また、さみしさもあるだろう。だからこそ、今ふたりが手をとりあっているように、愛したものへの想いとともに、手をとりあって、あるのだよ。愛を嘆くのではなく、愛を語るのだよ。」