意識をして、その合理性を守り自己防衛を行わしめ、無意識の生命をして、それ自身の道をゆかしめる公平な機会を受けしめよう。
 
(カール・グスタフ・ユング『人格の統合』より)
 
 
症例が整理され、名称が付与される事で、初めて“病気”が成立する。
診療行為においては必要不可欠なプロセスであろうが、この事が障害者・病人と健常者を分断してはいまいか?
 
病名を知る事で、大まかでもその症状は把握できる。
だがそれは、情報としての病気と、情報としての病気を患っているという事実を知るに過ぎない。
本当の意味で、当人の置かれた状況・辛苦を理解したとは言えないだろう。
それでも人は、病気を患っていると知れば同情する。病人という目で見る。時に劣等的に扱う。
 
意識と無意識にも同じ事が言えないか。
意識上に顕在しないから無意識である。
無意識の一般傾向を客観的情報として知るのみではなく、個の生命においてそれが示す“具体的な意味”を知る事で、初めて自身を行かしめる道に気付けるのだろう。
 
無知であれば、機会が訪れた事にさえ気付く事はない。
 
 
#総じて寄り添う事は難しい。他人にも己自身にも。
#知には分断の性質があると同時に、それを可能にする力があるように思える。
#意識と無意識と同様に、本当の知にも補填の性質があるという事だろうか。
 
 
 
【2017年10月28日のボクへ】
いつか過去となったボクに、何かを語れる日が来るその時まで……