ねぇ、信じるってどういう事だと思う?
 
例えば、ある命題Aがあるとして、そのAの持つ意味や規則に準じている、或いは実践できていると信じる事、これは命題Aを信じる事になるのかな?
 
 
… … …
 
あ、もしかして知ってた?
そう、「規則に私的に従う事はできない」ってヤツ。
昔は何のことかな?って思ってたんだけ、最近になって急にこの意味が分かったような気がして。
直感だから外れてるかもしれないけどね?
 
このテーゼに従うなら、答えは「NO」。
命題Aの規則を信じる事は、命題Aの規則に従った事にはならない。
 
重要なのは、ここでいう信じるが、一体何を信じてるかって事よね?
 
ここで信じてるのは…ん~、ちょっと違うかな?
信じる事ができるのは、Aと言う命題自体ではなく、Aという命題を自分の言葉で再解釈して、自分の中に創り上げたAを模した偶像。
つまりは、自己鏡像的な別物を信じている。
これがきっと、命題自体の規則に従う事と決してイコールになり得ない、私的に従うって意味なのかなって。
 
 
じゃあ、この命題Aに「愛」を代入してみようか?
そう、LOVEの愛。
 
 
… … …
 
って、何?その顔!代入する物がいつも恣意的に偏ってるって思ってるでしょ!?
いいじゃない、別に。
 
私ね、漢字の愛の方が好きなんだ。
英語と違って、漢字で書くと象形的イメージから、何となく二人で心を支えるみたいに見えない?心を受けるって書いて愛だしね?
これってさ、言葉の意味を頭で解釈して理解する以前に起こる直感的感覚だよね?
まるで、命題の意味が、直接心に流入してくるような。
 
え、偏るの意味が違う?勿論、わ・ざ・と!
愛の代入に戻るね?
うん。勿論戻りますとも。
スルーなんかさせないよ?ふふふ。
 
 
どれだけ心の中で、貴方を愛してる、貴方を愛する事ができるって信じても、それは伝わらないし、愛した事にはならないんだよね。
真偽で言えば、少なくとも証明されるまでは、決して真にはなれない感情。
そして同時に、第三者による外部からの証明が実質不可能である以上、決して真にはならない感情。
 
でもね、ここでいう「信じる」という行為自体ならどうかな?
信じると言う命題が正当である事を前提に、真にそれを理解して、誠の意味で実践できるのであれば、それは信じる対象の真偽如何を問わず、真であると言える行為。
だから、愛しているという感情を、具体的な行為に変換してあげれば、それは間接的に愛の実践…つまりは愛の証明にならないかな?
 
そして最も大事なのは、信じるって事はつまり、必ず外部に第三者の存在を必要とするって事よね?
その第三者も同じように、信じると言う命題の意味を考えているって事。
 
 
 
これは、1年前の4月21日に記録した言葉だ。
 
ボクは、記録した言葉に思想や思考を込めるのなら、その完成には“熟成”の期間が必要であると兼ねがね思っている。
 
今日残した文章を、明日時間をおいてから読み返すと、その稚拙さに思わず手を入れたくなる事が多々ある。
頭の中にあるものを言葉や文字に変換する過程と、言葉や文字からそれが記されるに至った思想や思考を辿る過程とは、方向性の違い以上に決定的な違いがあるのだろう。そして、時間をおいて読み返す事で、思想を言葉で説明しきれていない事…変換損の事実に気付く事ができる。
 
文章を書くとは、書く立場であると同時に読む立場でもある。
書きながら出力される内容をフィードバック的に取り込み、あたかも文章自体に“書かされている”ような感覚を覚えた事はないだろうか?
 
これは見方を変えれば、“書く立場”から書くと思い込んでいたものが、実は“読む立場”から書かされていた…そんな風に解釈する事もできるだろう。
この場合、読み手であるボク自身は、同時に書き手でもあるため、当然頭の中にある情報…ここで言う思想や思考による補完が可能になる。
 
これが時に、真の読み手に対して、意味の断絶をもたらすものの正体に当たるのではないだろうか?
つまりは、自身による補完作用が、本来一切の保証がない第三者との“意味の成立”に対する危機感を忘れさせる。そんな風に思える事がある。
 
明日のボクが今日のボクに対して抱く僅かなズレ、それは昨日のボクと今日のボクが完全一致する同一人物でない事を意味するのかもしれない。
この時間的乖離が更に積み重なり数カ月にもなれば、当時自分自身が何を考え何を思ってこの文章を残したか、そんなものは綺麗サッパリ忘れてしまう事だってある。
 
“だからこそ”、ボクは敢えて思考の全てを文章には変換しない。抽象的な表現でぼんやりと分かるような分からないような中途半端な文章を残す。
 
そして同時に思う。
 
その程度の時間で忘れてしまうようなものなら、そもそもそれは記憶に値するものではなかったのだろうと。
真に自分の血肉になるような思考であれば、例え当時何を考え書いたのか、その思考経路をトレースできなくとも、何らかの形で閃き、降りてくる。表現の形は変化に迫られようとも、骨子に当たる趣旨の部分は重厚さを増す。そうして定着する。そんな風に思う。
 
だからこそ、数か月、時に数年に渡る“熟成”期間が大切であると。
 
 
分かっている。これは思想や思考に限ったものではない。
生きるという事を、世界に対する限界の模索・諦めの顕現とペシミスティックに評価するような場合でも、理屈の部分はそんなに違わないだろう。
 
だが、先ほどの表現を引き取るなら、数か月、更には数年などという時が経過すれば、それはもはや完全なる別人だ。そう断言できる。
別人であれば、自身の記憶の中で永久に記憶し続ける事も、それを正確に再現する事も人間業ではないだろう。
だから、今の自身を“照明”するものとして記録に残す。自身の立ち位置を明確にし、比較としての“熟成”を成立させる。その行為は、少なくともボクにとっては必要なものだ。
 
 
じゃあ、1年4カ月を経て、相応の熟成はできたのかって?
当然の質問だ。そして、その権利もある。
 
「私的規則」云々には、もう少し言葉を重ねる必要があっただろう。
先ほど、意味の成立について簡単に触れた。時を隔てれば自身の内でも起こり得るようなものだ、それが第三者ともなれば、その隔たりの大きさは比するまでもない。
 
規則と言うと堅く聞こえるが、実際は言葉の意味でも概念でも世界の在り様でも何でもいい。
でもここは敢えて、規則と馴染みがありそうに聞こえる「命令」を例に挙げてみよう。
 
数学に関わるある問題を「解きなさい」と言われる。
オーソドックスに、教育機関における教授と生徒のシチュエーションを思い浮かべてもらえれば問題ない。
 
ここでは当然、教授の言う「解きなさい」と生徒の思う「解きなさい」の意味が一致していなければ、会話も命令も成立しない。
状況設定的には、講義に無関心な対応を取っていた生徒を名指しして「解きなさい」と命令する事もあるだろう。
この場合、同じ一言でもその裏には「解けなかったら廊下でバケツを持って立っていなさい」などという古典的な罰の存在が秘められるかもしれない。この時も教授と生徒とで同様の解釈がなされなければ、非難を帯び反省を促す意味の成立は見込めない。
 
この命令の持つ叙述的意味や思惑的意味や行為的意味、その重層的構造性に加え、本来意味とは酷く流動的なものだ。
ここで解く事を命じられた数学の問題についても、その概念自体は実体がないと言える。プラスやマイナス、ルートや割合、概念としては存在するが、実態ある存在としては何処にもない以上、それは思考的な“発明品”だ。
 
かつて「0」が忌避された概念であったように、かつて「1」が素数と定義されていたように、「1+1」もまた概念を記号として表現しそこに意味を賦与しただけに過ぎない。この記号が意味する規則が共有されているように“見える”からこそ、体系として成り立っているように“見える”。
その意味では、論理的思考の代表格である数学でさえも、そこに絶対性はないと言えるだろう。
 
 
長くなったが、ある程度具体的な思考を残そうとすれば、これくらいの言葉への変化…出力は避けられないという事だろう。そう割り切って続ける。
 
ここで語りたかったのは、意味の不一致性、不確証性、流動性などでは断じてない。
初めから意味なるものがあり、それが余す事なく相手に伝わったかどうか?…そんな考え方が既に「私的規則」の内にある事を示している。
 
意味の恣意的措定が不可能であり、同時に両者による意味の成立それ自体を確かめる術がない以上、最初から事象の裏に伝えるべき意味があると見なすのは、自身にのみ通用する孤独な「私的規則」に他ならない。逆に言えば、第三者が解釈する事で、初めて意味が生じる。
つまりは、最初から全ての事象にイデア的意味が宿っているのではなく、言葉に変換し第三者に解釈される事で事後的に結実するもの、それが意味である。敢えて言うのであれば、それこそが言葉の持つ「規則」となろう。
 
そこでは「私的規則」が通用する筈もなく、言葉という集合的習慣・意識の持つ意味は、原理的に断定できない事になる。故に言葉は支配的だ。
少なくとも“対話”においては、このギリギリの綱渡りのような関係性に満ちた世界を忘れる訳にはいかない。
その危機感を「私的規則」で隠蔽した時、そこから“対話”は消え去り、孤独な独り言に満ちた世界が待っているのだろう。
 
 
これが“熟成”の結果かって?
 
状況は変わっていない。これが合っているのか間違っているのか分からなければ、果たして思考的な進歩があったのかどうか、それさえも定かではない。
ただ、「熟成されたか?」という問いに対しては堂々と「YES」と答えさせてもらおう。
 
少なくとも、1年4カ月前のボクの思考とは連続的に繋がっている。
 
そして、例え意味の一致を確かめる事ができなくとも、信じる対象が正しいかどうか分からなくとも、“信じる行為”自体の実践により示せるものがあると、気付かせてくれた人がいたという事実。
 
ボクは今、この問題提起に対する必死の抗い…この信じるという結論に対して、改めて思うところがある。
大仰に言えば、新鮮な感動さえ感じている。
 
 
…ねぇ…
 
 
先ほど進歩と言ったばかりだが、この意味では“熟成”とは必ずしも進歩と同義ではないのだろう。
時の作用により分解された思考が、他の思考と複雑に混じり合い、発酵され、別の形へと変貌を遂げる。
 
 
…ねぇったら…
 
 
全てを訂正するようで多少気は引けるが、そう考えると熟成とは自身の内で自己完結的に進行するものではないのかもしれない。
 
少なくともボクの中では、ボクを信じると言ってくれた人がいる。
人生もまた熟成…誰かと共に混じり合い、響き合い、一つの別の形を作り上げる過程であるのなら、ボクには共に歩みたいと思える人がいる。
 
確かにそう思わせてくれる人がい…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ねぇ!!さっきから何、ボーっとしてるのよっ!!!!
 
教授、絶対こっち睨んでるって!!
 
もう!そんなレトロな紙と鉛筆なんて使ってるから、非効率すぎて思考がどっかに飛んじゃうんじゃないの?
ってゆ~か、それ高かったでしょ?今時似非アーティストでも、炭素由来の記録媒体なんて使わないし。相変わらず酔狂な趣味よね。
 
 
… … … 
 
まぁ、確かに集合ゼミって効率は良くないからねぇ。
でもだからって、効率性を積極的に放棄していいって事にはならないでしょ。
 
それに如何に情報の粒度が上がっても、結局デジタルの世界では欠損しちゃう情報がある訳でしょ?
今の世界、これだけ拡張現実が氾濫すれば、感覚的には仮想現実と大差なくなってくるから、便利になる反面、人間の存在感そのものの濃度も下がってくるような気がするんだよね。
 
 
…え?懐古主義的センチメンタルだって?
まさか紙を使ってるあなたに言われるとは。酔狂って移るのね?ふふふ。
 
でも、センチって言われるとそうかなぁ?う~ん…本来、人と人の間には絶対的な隔たりがあるでしょ?
私とあなただって、お互い何を思ってるか直接的に知り得ない訳だし、それを一生懸命言葉や態度で表現しようとしたところで、それが真に意味するものを互いに知る事もできない。何度言葉を重ねようとも結局その繰り返し。
 
そういう意味では、全ては決められた規則に従うんじゃなくって、二人が一生懸命絶望的な断絶を超克しようとする事で初めて“結果としての”規則が制定される…そう考えれば、文字通り神様だってこの関係性を予期する事も保証する事もできないよね?
 
だから、例え無駄が多くても、こうして一堂に会するってのは、そんな命懸けの関係性を再認識して、再び決意するための契機になるかなって。
 
そんな風に思うの、もしかして私だけかな?
 
 
… … …
 
え、嘘?あなたも同じ事考えてたの?ホントに!?
さっすが!命懸けで付き合ってきただけはあるね!教授にも睨まれちゃったし、もうお互い捨て身になるしかないしね?なんちゃって。ふふふ。
 
あ~、そうか!なるほど!
それでさっきから、ボーっとしながら一生懸命何かを書いてたのね?考え事を纏めていたと。納得納得。
ねぇ、それさ、ちょっと見せてもらってもいい?
 
 
え?何で隠すのよ?ちょっと、何、その慌てよう!?
まさか、見せられないようなものでも書いてたんじゃないでしょうね!…って、コラ!何で消すのよ!ちょっ…見せなさい!
 
 
… … …
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

なになになに?え?何!?

 

 
これ…私っ!?!?
 
極端に尖らせた鉛筆使ってるなって思ってたけど、いつの間にこんなデッサンを…
ふむふむ…「共に歩みたいと思わせてくれる人がいた」とか、似非文学家みたいなセリフだね?ふふふ。
 
 
 
 
でも、何気に素敵だし、ちょっと嬉しいかも。
ってゆ~か、何で消しちゃったのよ!勿体ないっ!!
 
 
… … …
 
あれ?私、もしかして名指しで質問されてる?
やっば!超ピンチかも…全然聞いてなかったし。教授、スッゴク睨んでるじゃん。
 
…え、これを読めばいいの?ホントに?
つか、あなただって聞いてなかったでしょ?…え~い、もうどうにでもなれ!
 
 
「¬∃xPx」という表現は回りくどいから、「∀xPx」…“全て”のXはPであるのが望ましい…って、やっぱ、違ってました?
 
 
… … …(教室がドッと笑い声に包まれる)
 
ちょ…ひっど~い!あなた、わざとやったでしょ!?
まぁ、あなたがイタズラ好きな事忘れてた私も迂闊だったけど。
 
…うん?まぁ、別にいいよ。
私もあなたの素敵なノート見せてもらえた事だし、こういうジョークは嫌いじゃないからね。
 
でも、教授は何か言う事ないのかって顔してるね。あの人、懐古主義的センチな人だから、きっと謝れって事だよ。それこそ回りくどい顔しないで下さいって感じ?
 
 
… … …
 
よし、決めた!
 
ねぇ、私も回りくどい事言うの止めるから、もし廊下に立ってなさいって言われたら、一緒に立ってくれる?一蓮托生ってやつ。ふふふ。
 
って、ほら、早く立ってよ!
 
…言われる前に自ら立つのかって?
違う違う、何勘違いしてるのよ!私が伝えたいのはあなたよ、あなた!
 
ねぇ、私の目、ちゃんと見て。
さっきの回答、私、やっぱり間違った事言ってなかったよ?
一緒に歩み続けたい人がいるって気持ち、私にもはっきり解った。
 
だから、1回だけ言うね?
 
 
 
私にとって…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あなたは、私の「∀」(全て)です。
 
 
 
 
 
 
 
ここからが本物の後書き的なやつである(苦笑)
 
自分は、物事の理解度を試す格好の手段として「他人への説明」を挙げている。
他人に説明すれば当然疑問に対する質問が返ってくる。それに答える事ができなければ、自分自身の理解度が不十分であると言える。
どれだけ言葉を尽くしたところで思想の方向性の不一致等の属人的理由から、意見の一致を見ない事もあるだろう。だが、ここで言う理解度としては結果はそれほど重要でないように思える。少なくとも趣旨が伝わり判断を下すに十分な材料を提供できれば、理解度の判定としては必要十分だろうか。
 
この考え方には何の真新しさもない。自分自身、第三者から聞いた言葉でもある。
現実にもビジネスのような功利的な場であれば、会議であったりプレゼンテーションであったりと他人に説明せざるを得ないシーンは実に多い。ここで理解を得られないようであれば致命的だ。
 
だが、これが日常生活の中での漠然とした考えともなると、真剣に受け止めてくれる人間はそう多くはないと思える。現実に自分の身の回りでも、ここで披露したような内容を話せるのは、極限られた一部の友人だけだ。
ちなみにアルコールが入る場でも、こんな取り留めのない話に耳を傾けてくれるはありがたいの一言に尽きる(苦笑)
 
さて、こんな風に理解と説明を結び付けている事が習慣化されているせいか、自分には、ある程度思考が纏まると無意識に自分の中の「仮想誰か」に説明を始める癖がある。
 
昔の「仮想誰か」は、小さな子供だった。
頭の中で説明を始めると、話の腰を折る事を無邪気に楽しむように「何で?どうして?」を繰り返す。
「Whyを5回繰り返せ」という言葉があるが、5回繰り返すのは結構しんどいので、その辺は弁えているのか、平均2.5回ほどWhy?と言う。ちなみに欧米という設定はない(謎)
 
それが最近は、「仮想誰か」が自分に説明するようになった。つまりは話す立場と聞く立場が逆転したとも言える。
この時説明する側の「仮想誰か」は若い女性であり、異性でありながら不思議なほどにスラスラと淀みなく話し出す。驚く事に“デレ要素”まで勝手に話し出す(笑)
 
その内容をそのまま書き留めたのが、当カテゴリ『言の葉、残り香の残滓、それは潜在する毒の如く』である。
公開に際し、一人称の会話調に編集したり、本文で触れた“熟成”の結果として小話的な挿話を加筆したりする工程はあるが、ベースとなる草稿は自然に出た言葉を記録するだけなので、大した労苦もない。最も、挿話の方は全体としてジョークに繋がるような整合を取る事を意識したので、結構苦労しているが(ぉ
 
ちなみに今回のエントリの冒頭から視点が変わるまでの文章が、この草稿と一致する。
いつもであれば、これを加筆修正して肉付けをしていくところであるが、今回は敢えてほぼ手を加えずにアップした。
 
蛇足ながら一つ挿話を入れると、この草稿の「思想部分」については、かつて執筆していた『㍉オダス・ギルティ』における各章冒頭の「回想シーン」として使用する用意があった。
つまりは、当カテゴリにおける女性主観のモデルは「㍉オダス」という事になる。(ヾノ・∀・`)ナラネー(笑)
 
 
ここまでカテゴリの成り立ちについて補足してきたが、先ほども言った通り「仮想誰か」への説明自体に特殊性はないと思っている。実際、友人の何人かも示し合わせたように同じ行為をしていた。いや、周りから見れば奇人集団なのかもしれないが(爆)
 
強いて特筆すべき点を挙げるなら、「仮想誰か」の変遷と立場の逆転だろう。子供から女性へ。話し手から聞き手へ。
深層心理学で言うアーキタイプである程度説明がつきそうだが、恐らくそれでは自分にとって納得のいく説明にはならないだろう。最も「河合隼雄」先生あたりにご指導いただければ、ふむふむとしたり顔で頷くのだろうが(謎)
 
 
少なくとも言えるのは、それは、生々しいまでの実在感を示す存在である。
ワンピースの裾を翻し踵を返す。その瞬間フワリと立ち上がる芳香。時間の移ろいと共に残り香に変わった微細な粒子は、攪拌し沈降し存在を主張し続ける残滓となる。そして、そこに宿り続ける言葉…思考がある。
 
説得力に欠ける事を承知で悪びれず続けるなら、本文中で語った“熟成作用”とも言えるものとして外からの思想と混じり合い、1年前の自分と今の自分が異なるように絶えず変化し、先刻までとは異なる“もの”となり漂うのだろう。
 
その結果としての表現が、かつて子供であり、今が若い女性であるのなら、そこにどのような意味があるのか。そして、立場の逆転が示すものとは。
今の自分には到底辿り着けない心理ではあるが、これから後、熟成を重ねる事で今とは違う何かが見えてくるだろうか?
 
そう考えると、今後この姿がどのように変わるのか。
そして、自分と言葉を交わした幾人かの内面でも同様の動きはあったのか。
非常に興味深いところである。
 
何れにせよ一度毒盃を煽り、世界が違って見えたのなら、その変化を止める“規則”はどこにもない。
 
 
 
【関連】言の葉、残り香の残滓、それは潜在する毒の如く | ドーナッツ・ライト(Do What's is Right)
※今のボクが形にする、今の心象風景。
 
【参考】[Horsaga: Another Dust] ㍉オダス・ギルティ 最終話「変わり行く世界」