ねぇ、「自分らしさ」って何だと思う?
これってよく言われるセリフだから、当たり前のものとして無批判に受け入れがちだよね。
使い古された定型文の説教文句に「自分らしさを見失うな」とかあるし、自由主義的価値観の重視なんてのも自分らしさとか個性の称揚と親和性が高いって言えそうだし。
今の時代は衣食住の提供がほぼほぼオートメーション化されてるから、エンターテインメント提供の比重が高まって、結果的に“独創的な個性”ってのが歴史に類を見ない程にもてはやされるようになった。
必然性がなくなれば、自ずと人間活動…エネルギの向かう先もシフトするって事だね。
でも、一昔前の時代だと、個性って言葉の意味も今とはちょっと違うよね?
狭い組織の中で皆が集まって、建前では個性を育てると言ったものの、現実には右へ倣えの協調性が何より求められた。
そんな時代だったからこそ、個性を発揮する場…社会とか価値観とか抽象的な概念も含めた舞台…って言えば聞こえはいいけど、実際は脱個性とも言える規格統一された籠の中で、枠から逸脱しない範疇に留まる個性だけが承認された。
逆に言えば、範疇外だとか所謂ハンディキャップに相当するような個性は、エラーと見做されて是正措置が講じられる事さえあった。
そう考えてみるとさ、これって案外難しい問題だって思わない?
例えば、あなたが自分らしいって感じる瞬間ってどんな時?
… … …
ふふ、何それ?
「懲りる事なく毎日私の部屋に通う時」って、まさか私を動物園の檻の中にいる珍獣か何かと思ってるんじゃないでしょうね?
あ、でもそれじゃ、あなたらしさって話にはならないわね?
それじゃあ、空に放そうとしても拠り所のない自由が怖くなって、結局自ら籠に戻ってきちゃう小心者の小鳥ってとこかしら?
…ちょっと、冗談だからそんなにむくれないでよ!
じゃあ、どうしてあなたは毎晩私の部屋に来てくれるんでしょう?あなたらしく教えてくれる?
… … …
「部屋の灯りが付いてるのが見えた」から?
あぁ、分かる分かる!暗闇を彷徨うような夜に仄かに温かみを帯びた灯りを見つけると、ついフラフラ~って歩み寄っちゃうよね?
…って、
おまいは「蛾」かっ!?
…あ、ゴメン!
ツッコミってあんまり慣れてないから、ちょっと力入り過ぎちゃったかも!?…大丈夫?
お詫びに、「蛾」は訂正して、毎晩愛を語りに来る『ロミオとジュリエット』って事にしといてあげるから。ふふふ。
でも、蛾のツッコミは中々ナイスだったかもしれないわね。
さっきの話でいくと、籠という空間に閉ざされる限り、いくら個性と叫んでもそれは比較でしかないんだよね。
それもその籠の中で“善とされるもの”に準じた能力が評価される。勉強だったり、運動だったり、ストイックさだったり、リーダーシップだったり。比較項目も比較対象も全てが恣意的なもの。
ネガティヴな個性じゃ籠の秩序維持に全く貢献しないから、例えば、そうだなぁ…
ある人にとって記憶力が最も自信のある能力だったとしても、集団の中で相対的に評価するとせいぜい中の下。それだと突出した能力って意味の個性としては承認されない。
少なくとも当人は記憶力を最大の長所…個性だと思ってるのに、周りがそれを認めないから、他に何かないか闇雲に探した挙句、“個性の代替物”として「優しい性格」とか言い始める。
結局は、籠の中から見て“有用性”のある性質に対して、個性ってラベリングをしてるだけなんだよね。
それならいっそ「バカ」って言う代わりに「ユニーク」って言ってあげた方が、まだスマートだって思わない?
… … …
「モス(蛾)」っていう代わりに「カス」?
ちょ…そんな事言うわけないじゃない!どれだけ卑屈なのよ、もう!!
あ、でも、瞬時にこの発想が出るのは、案外スマート(賢い)かも?
ってゆ~か、毎日私の部屋に来るのって「M」って個性を発揮するためじゃないでしょうね?…でもそれじゃ私が「S」になるか?な~んてね!ふふふ。
はい、そこ!真顔にならない!!
…って、避けないでくれますか?ツッコミ。
さて、無理やり落としたところで、ちょっと話飛んじゃったけど、折角「モス」が出たんでこれを引き取って「蛾」の話に戻るね。
フランス語では、「蝶」と「蛾」を区別しないって知ってる?言葉の上ではどちらも「パピヨン」。
私たちの文化圏の平均的感覚だと、この分類にはすっごく違和感がある。何で綺麗な蝶と気持ち悪い蛾が一緒なんだ!って感じだよね。
もうちょっと具体的なシチュエーション考えてみると、足元を行き交う蟻の行列に対して、1匹1匹の個体を意識する事は普通ないよね。
だけど、蛾の群れの中に一際美しい蝶が1匹紛れていれば、フランス語を母国語に持つ人たちでも、きっとそれは自然と意識しちゃうでしょ。
でもこれは、言葉による蝶と蛾の意味ある区別ではなく、単純な美しさの相対的評価に過ぎないんじゃないかな?
蝶と蛾は、決して“別々の籠”で飼われてはいないって事ね。
さっきの「籠から求められる個性」って発想に照らし合わせると、一番綺麗な蛾を蝶の籠の中に入れたらどうなるかって話かな。
私たちにとっての自分らしさとか個性ってのも、きっとそれと大差ないって思えない?
もっと身近な例を挙げると、美しさもまた個性に違いないけど、目が大きい方が美しく見える籠があれば、切れ長の方が好まれる籠もある。それどころか、顔のパーツの造形美とは無関係に、首の長さとか唇の厚さ、耳たぶの長さで評価される籠もあるわけで。
もし、「スタイル抜群でいつでも都会的な振る舞いをするのが私らしい」って思ってる人がいたら、色んな意味で疑問に思っちゃうよね。
スタイルが崩れたら私らしくないのか、田舎に移ったら私じゃなくなるのか、そんな価値観が“私らしい”って言えるのか、そもそもここでいう“私”って何なのか、とか。
… … …
あぁ~~~!確かにいるかも…「もし、日本の平安時代に生まれてたらモテたかも」って人!
って、巧い事言ってるけど、あなた何気に蝶の籠に蛾を放り込んでない?
…え?無意識に「蛾」って言ったって?
ちょ、ちょっと何言ってるの、そ…そんなわけないじゃん!あなたの顔見ながら話してたら、蛾が先に出ちゃっただけだよ!
何?私?蝶か蛾かどっちだって?
それは勿論、え~と…ほ、ほら!私、フランス語喋れるから蝶も蛾も区別しないでしょ?だからどっちかって言うと…「ジュリエット」…かな?
はい、このお話はこれでおしまい!ふふふ。
ねぇ、言葉ってさ、本来は有用性による消極的な差異の比較だって思わない?
蝶と蛾の区別がない事もあれば、白いウサギと茶色いウサギが区別される事もある。
でも、言葉で成り立つ現実の世界では、時に残酷ささえ帯びる積極的な比較と言葉による切り抜きが絶えない。
「自分らしさ」を定義付けるものもまた同じだよね。
そもそも比較の必要性がない…比較の概念さえなければ、一人一人の個性を識別する必要はなく、それは「その他大勢の他人の群れ」に過ぎない。ただ流れるだけの人の影…足元の蟻の行列と同じかな?
偽りの比較が「自分らしさ」って言う幻想を作り上げるのか、それとも「自分らしさ」を象るために積極的な比較という機能があるのか。
そう考えると、もしかしたら蝶の籠に蛾が飛び込むのは、マルクス風に言えば「命懸けの飛躍」と同じなのかもしれないね?
… … …
そっか!私の部屋に来るってそんな命懸けの決意が必要なんだ!
…分かってる、分かってるよ。ありがと。
何だかホントに「ロミオ」らしくなってきたね?もう「蛾」なんて言えないなぁ。ふふふ。
「蛾」から「ロミオ」への変態を遂げるくらいのオフトピになるかもしれないけど、ちょっと聞いてくれる?
さっきのマルクスからの連想なんだけど、商品交換は共同体と共同体の“間”で生じる…これって、物と物の価値を通して所謂「物象化」として顕在化するって視点じゃなくって、貨幣という経済の仕組みが、商品…価値形態の持つ価値の不定性を隠蔽したとも見れる訳でしょ。
同じモノであっても、それを使う人間・文化によっては全然価値が異なるってのは当然な事で、それを貨幣という単一の価値尺度によって交換を可能にするなんて、本来的に何処にも根拠がないからね。
共同体…異なる籠を飛び越えて値札を付けるなんて、一体何処の誰が確信を持ってできるんだって話。それこそモノと同時に人も創った神様でもなければ、到底無理よね。
ねぇ、人と人も同じように、無根拠性を隠蔽する媒介物があるのかな?
… … …
やっぱ、そう考えるのが自然だよね。
きっと、私たちを取り巻く籠の存在が、この無根拠性を神聖化させてる。
この神聖化って、つまりは超越…完全な外部に根拠を求める事で誤謬性を完全排除してるかのように見えるけど、実際は逆なんだよね。真の意味で外部に根拠なんて求められないからこそ、辿り着けない聖域に放り投げて隠蔽してる。
内部にこそ、無根拠性が隠蔽された根拠がある。
じゃあ、この籠を全部取り払ったら、「自分らしさ」はなくなる…「自分らしさ」という“意味そのもの”がなくなって、個体の識別可能性とは無関係に人間は均質化された影になるのかな?
… … …
私もそう思う。
それでもやっぱり、人は「その他大勢の群れ」なんかじゃない。
少なくとも私は、意識の上では有用性とか価値形態なんかと無関係に、あなたを一人の個性ある人間として見ている。
私、思ったんだけどさ、「バカ」って言う代わりに、本気の愛おしさを込めて「ユニーク」って言えたら、それはある意味「命懸けの飛躍」に成功したって言えそうじゃない?
籠の中で「バカ」というレッテルを張られた者がいる。その個性の代用品として消去法的に「ユニーク」と言うんじゃなくって、「バカ」である事をそのままに受け止めて、「バカ」である事のできるその人を心の底より愛する。
それを、その人の“個性”において「ユニーク」と呼ぶ。
これってさ、「自分らしさ」は自分で作ったり、自分で見つけたりするものじゃないって事かな?
こうやって、命懸けで相手の胸にダイブして抱き留めてあげる。そうする事で象られる“その人の形”がある。
ねぇ、人は生まれながらにして、愛する以上に愛されたいって欲求を持っているって事かな?
… … …
「愛される事で充たされる個性も確かにある」
ステキ!何だかホントに『ロミオとジュリエット』になったみたい!
じゃあ、次、私のセリフね!
例え、全てを取り払った世界がどんな世界であろうとも、自分を規定する依り代を失って自我の輪郭が解け始めようとも、私はいつだってあなたを愛してあげる。
そうして、あなたという個性をずっとずっと、象ってあげる。
私という籠があったとして、あなたがそこで最も美しく輝けるなら、その事自体もまた個性でしょ?
私らしさを運んでくれるのは、きっと、そんなあなたの存在。
ねぇ、どうして毎日私の部屋に来るんだっけ?
… … …
『あの窓からこぼれる光は何だろう?
向こうは東、とすれば…ジュリエットは太陽だ!』
嗚呼、ロミオ…あなたはどうしてロミオなの?
空っぽの私を充たしてくれるのは、いつだってあなたの命懸けの言葉。
ねぇ、もっと呼んで…
…この形が崩れる前に、私の名前を。
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※当エントリ執筆の契機となった元メール。そして後書き。