機能停止が許されないモデルは、冗長性を持たせる事で耐障害性を持たせ、高いSLA水準での保全を可能とする。
では、冗長性を排した最も単純な最小構造で構成される場合はどうだろうか?
 
単純である事の利点は非常に大きい。
比較的壊れ難く、状態把握も容易であり、モデル自体に加え運用に関わるコストも安価だ。
 
だが、これらは全てトレードオフの性質。
基本的に単純な構造体は、壊れたなら交換するという手段で復旧させる事になる。
大量生産と親和性が高く予備部品が潤沢に用意されるのは、まさにこの裏返しだ。
 
つまりは、寿命を迎えたならどうなるか?
滅びるか何かに取って代わられるしかない。
 
 
これは最小構造をミクロ的に見た場合の話だ。
 
もし自己完結した最小システムが寄り集まり、意思の有無に関わらず全体としてより大きなシステムを構成するのであれば、それはマクロ的に違った見え方になるのだろう。
 
安易な発想ではあるが、単純システムの寄せ集めであったとしても量による相互補完性…欠損した部分を他が補う事により、全体の稼働性が向上する可能性はある。
 
だがこれは冗長性ではなく、寧ろフォールバックの印象が強い。
そして同時に、欠損した特定の集合単位の全面換装…ある種の世代交代を強制的に促すために、「マクロ的モデル」として「ミクロレベルの死」を意図的に付与しているとも思えてくる。
例えミクロな系に、何らの意思がなかったとしても。
 
 
これを、人というシステムに照らし合わせてみる。
 
人を構成する細胞だけに留まらず、人自身にも当てはまると思えるのは、果たして気のせいか?
 
 
 
 

 

 

#分子構造は錆付き、全体システムは老朽する。

#単純であるが故に実装された、残酷な退行。
#背後に佇む木々の葉が、色付き、枯れ落ち、そして生まれ変わったように眩しいまでの青さを再び繁らせるのと、実に対照的だ。
#マクロの系は代謝する。だからこそ、花は咲く。