他人の為に涙を流す事が出来るのは
何よりも優しい証拠だ。
 
自分が涙を流すとは思わなかった。
 
 
# 現実に涙する事は案外多い。
# 他人の死に涙する事は残酷な現実の認知か,優しさか。
 
 
 
===> (Reverse ∧ Rebirth)
死を悲しみとして理解したのは
最後に飲んだアルコールだった。
(Re: Verse ^ Re: Birth) <===
 
 
 
【22歳 3月13日のキミへ】
所謂「客観」とは「主観」との視点の違いを意味する。
これがボクの客観に対する解釈だ。
 
つまりは、客観とは、意識的に主観から一歩離れた視点から、周囲の平均的認識のフィルタを噛ませる事以上の意味はない。
そして、相手を思いやる気持ち、相手の立場に立つ思考とは、このカバーを被った「客観」という名の主観に他ならない。
 
但し、このフィルタを持って解釈する対象が「死」であった場合、それは全く様相を変える。
 
この場合、変化があったのは主体者の意識ではない。
恐らくは見るべき主体そのものなのだろう。
 
確かにそこにあるものを観るのではなく、失ったものを観る。
自身の胸の内の「喪失」を観るのが、他人の「死」であり、それには客観的視点の習得ではなく、まさに自分自身を見つめる力が求められる。
 
 
…これもまた、ボクの極個人的な解釈である。
初めからそこに存在せず、喪失にすら成り得ないものとして、軽く受け流して欲しい。
 
 
#では、「追体験」というフィルタを介さない「優しき涙」はありえるだろうか?
#想像を巡らせてみると、相手の気持ちになる事が、本質的には「追体験」に根拠を置く事が殆どであると気付く。
#(永劫の)死は決して体験する事ができない。その意味でやはり特別なのだろう。