リアルな死のイメージを感じる取る事は出来なかった。
その輪郭も境界も理解の範疇から大きく逸脱している。
少し眼を閉じて考えてみる。
それは事象とは異なるものであるのかも知れない。
全神経を集中させ五感を鋭利で過敏なアンテナに置き換えても
それをそれとして認識する事は不可能だ。
人として存在出来るアイデンティティを瞬時に全くの別の次元に移送する。
それは真空中に伝達される光の如く
刹那的なある種の力学的な作用を指しているようでもある。
死は内在しない。
# 直感的な死が現実的な死の意味を浸透させる事は稀なのかも知れない。
# 皮肉な事に些細な事で実感する。
===> (Re: Verse ∧ Re: Birth)
人の死を認識すべき現実として突き付けられても
素直に脳に現実が伝達される事は無い。
死を受け入れ難い事実として拒絶していると言うには陳腐過ぎる。
私にとって直感的な死とは
生命の鼓動を失ったかつては生命を持っていた物でないと言うだけであろう。
何時の時にも死に侵食された人の身体は
それを人と呼ぶには余りにも抽象的過ぎると感じる。
まるで蝋人形だ。
(Re: Verse ^ Re: Birth) <===
【22歳 3月12日のキミへ】
批判を恐れず言うならば、死とは物質へと至る事務手続き的過程なのかもしれない。
死が満ちていくのではなく、生が失われる過程で物質化が進行する。
絶望により生の活力を奪われる事が、時に病・死へと直結するように。
そして、死が内在化されるとしたら、それは当人ではなく死を受け止める側になるのであろう。
些細な事で死を実感する。
それが死の受け入れ契機として必要十分であるのは、まさに死そのものではなく、物質化の事実を受け入れる事を意味するからであろうか。
#では、死を受け入れるとは、一体何を内面化するのか?
#恐らくこの答えが、明確なイメージが何処にも存在しない理由になるような気がする。
※2017/10/4追記
度々言及されていた「裏日記」の存在。
気になりつつも、それがどこに保存されているのか完全に失念していたが、ちょっとしたきっかけで「表日記」を反転させる事で表示が切り替わる事が判明。
当時、ブログを書きながら表と裏の日記も書く。よくもまぁと奇妙に感心すると共に、我ながら手の込んだ事をと呆れもする(苦笑)
ちなみに表裏のそれぞれの定義は、表は思考を、裏は行動もしくは表へと至る思索を。
つまりは所謂日記が裏に当たり、通常とは逆の発想となっている。
つか、行動面は時を経た現在、客観的に判断しても碌なものではないので、裏として秘匿したのは賢明な判断だったとも評価できる(笑)
という事で、裏については公開に耐えられるもののみ追記したいと思う。
耐性の許容範囲は他でもない、私のメンタルに左右される(爆)
ところで…
「rebirth」と言うとどんなシチュエーションを思い浮かべるだろう?
恐らくはもう一度同じ人生を繰り返すのではなく、何らかの過ちをやり直すような今とは違う新たな生を想像するのではないだろうか。
その意味では、「reverse」とは「verse(韻)」を超えた相性の良さを感じる。
では、反転した生の表現に当たっては、「or(論理和)」と「xor(排他的論理和)」、どちらが相応しいだろうか?
回答を焦る必要はない。
その評価が可能となるのは、「今のこの生(concrete)」を終えた時と考えるのが妥当であろう。
「創造的な生(create)」を送る可能性は、確信を抱くに至る最後の瞬間まで留保され続けよう。
だからボクは、せめてもの代わりに、「implication(含意)」の後件に「二つのRE」を捧げる。