突然発せられた言葉に空気が凍りつく。
時間が止まる。
光の束が急速に色彩を失い,
繋ぎ止める力を失くした景色が揺らぎ焦点がぼやける。
静止画となった記憶が滲んでゆく。
言葉はその影響力を攪拌しながら
全身の細胞に突き立てられた放熱板のように
鈍く思考の自由を奪ってゆく。
恐らく残酷な現実を目の当たりにするまで
停止した風景が再び動き出す事はない。
# 人の意識は現実の認識能力に乏しく
# 人の思考とは極めて鈍感なロジックであるのだろう。
【22歳 3月11日のキミへ】
人の理性にある曖昧性。
もし、鈍感である事を許容できる構造的ファジーさが、必然性としてあらかじめ組み込まれているのなら、その正体は現実に対する耐衝撃性を担保するためのデザインなのかもしれない。
自我に直接的影響を及ぼすような致命的事態が生じた瞬間は、恐らく何故と問う事もできず、ただ受け入れようと(或いは拒否しようと)するのではないだろうか。
仮に大切な人を失ったとしたら、その人が欠けた具体的な生活をシミュレーションして、今後の人生プランを検討する余裕などない筈だ。
その瞬間は、ただただ消失した存在そのものを呆然と意識するのみ。
そして、このアクセルとブレーキを同時に踏み続けるような状態を解除するのが、残酷な現実であるという事ではないか?
重要なのは、解消ではなく解除されるに過ぎないという事実。
だからこそ、この衝撃に対する耐性も必要不可欠なのだろう。
#この耐衝撃性も既にビルトインされているのなら、一体それは何に相当するのだろう?
#もしかしたら、ファジーの確保する整理のための時間…それだけが救いであり、解消の余地など何処にもないのかもしれない。