時々この世界が作り物の箱庭のように思えることがある。
その中では人は与えられたパラメーターにより
個を演じ個の役割を成す。
個に与えられた制御された権限が
認識出来るものとして世界の境界を作り出す。
あらゆる事象が現象が運命が制御され管理される。
無論私もその例外に洩れる事は無い。
# 時々自分自身をこれ以上ない程に客観視する事が出来る。
# それは自分自身にさえ関心が無くなる瞬間である。
【22歳 3月8日のキミへ】
人が歴史主義的視点で物事を捉える事から、逃れられないとしたら、
「与えられた世界で、所与のパラメータの範疇で、認識可能な舞台の上で箱庭の登場人物を演じる」…
この考えも強ち間違いではないのかもしれない。
都会を離れ広大な自然に触れた時、人は言いようのない開放感を覚え、そこで初めて自然の存在を実感するのではないだろうか。
然し、その自然との接触体験が悲惨な自然災害であったり、死体遺棄のような陰惨な事件であれば、一転美しき自然のビジョンは意味と共に風景も変える。
そして、都会のアスファルトの隙間から覗く小さき花は、目に留められる事もない。
如何に逞しく生命力に溢れていようとも、ただそこに気付かれない存在としてある限り、やはりそれは「名もなき花」なのである。
気付かれないのは世界だけじゃない。
全ての人間にとって、名とは、演じる役柄に付与された識別子に過ぎないのであれば…
裸のパラメータに名付けられる名前は、誰も知らない。
キミも、そしてボクさえも。
#往々にして、人は役割を与えられる事で安心を得る。
#それが世界との連続性を担保するパラメータであるのなら、それも“没我の境地”であると楽観的に言えるのだろうか?
#それとも、世界と同化しきれない“本当の自分自身”…名もなきパラメータが何処かに置きざられているのだろうか?
#何れにせよ、世界とは実にロールプレイ的だ。