「物語」
 
この言葉を聞いて、どんな印象を持つであろうか?
 
漠然としたこの問いに対して、「物語という言葉自体」の印象を答えるのは困難というものだろう。
物語の内容としても、実に様々なものがある。
 
フィクションとノンフィクション。
ジャンルとしてのミステリやSF等。
世界観としての現代物やファンタジー等。
そして、物語シリーズに登場する「羽川翼」は眼鏡あり or なしのどちらが萌えるか?って、断然初期の眼鏡ありVer.蕩れ!(๑•̀ㅂ•́)و✧
等々、文学的形態(?)なんてものも考え始めると文字通り切りがない。
 
…あ、でも最後のは完全な個人的印象になるか?(。・ ω<)ゞテヘペロ❤(謎)
 
 
さて、物語自体の印象を論じる事に無理がある事を確認した上で、これから展開される物語が適切な方向に向かうよう、ここで一旦辞書をひいてみるとしよう。
 
【物語(ものがたり)】
・さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。
・特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。
(goo辞書より引用)
 
物語とは内容の他、それを残し伝える行為そのものも含むのだろう。
一旦ここでは「物語とは“人の語る物語”である」とだけ言っておく。
 
例えそれが、神話の創世記のように人の営み以前をテーマにしたものでも、俯瞰的視座からの事実の集積である歴史をテーマにしたものであっても、ルポルタージュや研究のような客観性を確保した情報であったとしても、それに意味を与え物語へと形を変え、そして解釈を施し読み解くのは、やはり人だ。
 
…って、この人、普通にスルーしようとしたけど、「物語の定義」の中に「物語」入れちゃったよ!?(  '-' )ノ)`-' )ペチン❤(笑)
 
 
 
「物語」
 
それは、特定の事柄について人が語り継ぐ事、またその内容である。
 
では、改めて先を続けようw
 
 
一昨年2015年は、チェコの「ヤン・フス」が、キリスト教コンスタンツ公会議で有罪とされ火刑に処されてから600年目の節目の年であった。
宗教改革の歴史的経過、そして現代キリスト教におけるイスラム教(取り分け原理主義)への戦略問題を踏まえて、フスの名誉回復がなされるか注目された事は記憶に新しい。
 
このフスの物語から、パラフの物語に一本の補助線を引いてみよう。
 
チェコ人の「ヤン・パラフ」は、当時ソ連を中心とするワルシャワ条約5カ国軍がチェコ・スロバキアに侵攻・占領した事に抗議するため、焼身自決した。
これにより後世「プラハの春の英雄」と称される事になる。
 
抗議としての焼身自体は新疆ウイグル自治区における仏教徒にも見られるが、ここで論じるべきは、この行動が当時権力を握っていた共産党官僚による「チェコスロバキア社会主義共和国」という現実の国家への忠誠を誓ったものではなく、パラフの信じた「チェコ民族共同体」と言う心の内で展開される「悠久なる大儀」のために命を捧げたと見るべき事実だ。
 
チェコの神学者はこの英雄的行動を「自殺」ではなく「殉死」と解釈する。
これに対して、教義で自殺を禁じているキリスト教徒の多くは恐らく違和感を覚えるであろう。
だが「我々はヤン・フスの民族である」という共同体的神話を軸に集結を果たしたチェコ人にとっては、この解釈は疑問を差し挟む余地のない自明なものである。
 
この物語の多義性は、何も西洋の宗教に限った特殊事情ではない。
 
日本においても「天照大神の降臨」という神話に軸を置いた、万世一系・皇祖皇宗の天皇による統治と言う物語が存在する。
先の大戦では、神の国である日本国を通じて「悠久なる大義」に身を捧げる事で、永久なるものを建設する人類の文化的営みに自らの意思で参与し、生死を超越できるものとされた。
極力解釈を除外し事実列記の傾向が顕著な日本の歴史書において、一本のストーリで語られるこの物語も、外部の国家・民族の立場から見れば、それぞれに異なる歴史観として映る。
 
それだけではない。
日本においては歴史的に重大な出来事である「関ヶ原の合戦」から続く「江戸時代」の流れも、日本が世界的に列強の仲間入りを果たし明治維新により近代化に成功するまでは、世界史を構成する要素にさえなりえなかったと言えよう。
もし日本が遅れを取り先進国の後塵を拝していたのなら、恐らくは「鎖国政策」のみが世界史的要素となり、その後の物語は現在のものとは大きく改変されていた筈だ。
 
この意味で、歴史という客観的性を感じられる物語においてさえヒストリとゲシヒテは別物であり、人が介在する限りそこには必ず多元性の性質があると思い知らされる。
 
 
少々、宗教やら歴史の話に走り過ぎた嫌いがあるので、敢えて卑近な例も挙げてみよう。
 
『デスノート』『バクマン。』の大ヒット漫画を生み出した「原作:大場つぐみ/ 作画:小畑健」の天才コンビ。
現在では既に確定説とさえ言われている「大場つぐみ」と「ガモウひろし」の同一人物説だが、「ガモウひろし」名義で描かれていた『とっても!ラッキーマン』が寧ろ『コロコロ』とか『ボンボン』で連載した方がいんじゃね?的な画力と内容であった事を考えれば、何よりタッグを組んだ理由に説得力が増すというものである。
“物語自体”が持つ悠久的自己保存への意欲が、この判断を促したとも解釈できよう。まぁ、つまりはそういう事だ<何がだ?www
 
ちなみに連載当時も『コロコロ』や『ボンボン』が存在したか、私は存じ上げておらぬ。
うわっ、適当~!?(;´Д`)(笑)
 
 
 
「物語」
 
それは、特定の事柄について人が語り継ぐ事、またその内容である。
また、語り継がれる時の中においては、複数の解釈を生み出す多元性を持ちつつ、悠久への同化を誘引するものである。
 
では、気を取り直してw
語り継がれる時…この悠久にして長大な流れにはどのような意義を見つけられるだろうか?
 
 
ルネサンス期、古典主義時代、そして近代。
 
これは、フーコーが論じた西欧圏におけるエピステーメの変遷である。
ルネサンス期には、「類似」を持って一切を認識する。
古典主義時代には、類似は錯誤の知とされ、代わって「秩序」による分類が発展する事になる。
近代には、分類の限界を受けて「根底に流れる原理原則(表象の下の巨大な影の連続面)」を持って知を体系化する在り方が登場する。
ルネサンス期から古典主義時代への変遷を、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に象徴的に見られるとフーコーは言う。
オランダを失ったスペインを風刺するとも言われる、ドン・キホーテが風車に突撃する有名なシーン。風車を巨人と認識するこの描写を16世紀的なアナロジーと読み解き、17世紀の認識に照らし合わせれば、それはもはや狂人の認識であると論じた。
 
分かり難ければこう考えてくれても構わない。
 
賭博漫画の代表作である『賭ケグルイ』と『カイジ』。
アドレナリン噴出系興奮度MAX級ドS表情がステキな『賭ケグルイ』に対して、画力に一切の成長が見られない『カイジ』の絵が時代的評価を集める時がやってくるかもしれない。そういう事だ。
 
…つか、ピカソの毒で免疫ついてるし、ぜってーやってこねー(ヾノ・∀・`)ナイナイ(爆)
 
 
ここで重要なのは、エピステーメは時代と断絶しているという事実である。
「類似」による解釈は、「秩序」立った計測により再発見・分類され、「根底に流れる原理原則」の下に系列・連鎖・生成といった様態による学問として再構築されるに至る。
「ドン・キホーテ」が狂人に変えられたように、科学的知としてのエピステーメは、その発生基盤であるドクサの世界を忘れるだけでなく、その世界にまで自己を拡大しようとするわけである。
このエピステーメの要請…「第二の理念化」によって根源的経験世界の「喪失・隠蔽」は徹底的となる。
 
昨今、科学の進歩が凄まじい。
ゲノム解析による病気リスク調査の簡易キット化、CRISPR(クリスパー)による遺伝子組み換え技術の進歩。
 
1950年代の統計では、日本における乳幼児死亡率は39.8(対1000人比)と高い値であった。これは技術・環境的な問題に加え、育児に関する知識不足によるところも大きい。
対して現代の日本では、新たな生命を授かった夫婦が悩むのは「出生前診断」の受診とその結果であろう。現在の死亡率が約2まで改善された結果、求めるものも次の段階に達したと言える。
一般の認知率という意味でメジャーになったと言える、21番染色体のトリソミーで発症する「ダウン症」。多くは流産・死産となり、無事に出産できてもその命は統計的に長くない。
欧米では国策として出生前診断を推奨している国もあり、ダウン症と診断された夫婦の9割以上が妊娠中断を希望するというデータもある。
ここで挙がるのが、倫理の問題だ。
だがここでは、その是非を問う代わりに、これまでのエピステーメの変遷を踏まえて一つの可能性を示したいと思う。
 
科学の進歩が遺伝子異常を識別し、健常な遺伝子に組み替える事を可能とする時代が目前に迫っている。
そんな中、技術的に排除可能な(身体的)ハンディキャップを取り除かない事が、子供が健常に生まれる権利を害する行為と見做される。そして、天からの授かりものとして自然のまま子を産む行為が親の果たすべき義務の放棄とされる…そんな倫理観のシフトが生じるのも時間の問題かもしれない。
エピステーメの断絶は、平均的な親が持つであろう等しく尊い命への感謝…ありふれた根源的感情さえも断絶させ、失わせる可能性がある。
 
ちなみにここで扱った親の気持ちをトレースしたい方は、医療漫画の名作『ブラックジャックによろしく』の3~4巻(多分;)ダウン症編か、涙なしには視聴できない明治安田生命の歴史的CM『たったひとつのたからもの』に目を通される事を激しくオススメする。
 
あなたに逢えて 本当によかった
嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない
by 小田和正
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

  ∧_∧ パーン
( ・∀・)
  ⊂彡☆))Д´) <…つか、この時点で5,000文字オーバって、あなた、言葉にし過ぎてるからっ!? (爆)

 

 
 
「物語」
 
それは、特定の事柄について人が語り継ぐ事、またその内容である。
また、語り継がれる時の中においては、複数の解釈を生み出す多元性を持ちつつ、悠久への同化を誘引するものである。
そして、時代と共に新たな世界観を生み出し、過去との断絶を図ると共に、根源的体験を隠蔽する力学が働くものである。
 
本文に加え、物語の定義も肥大化してきたが、もう少々お付き合いいただきたいw
ここで語った「喪失・隠蔽」は、世界観を超えた総合知だけに生じるものではない。
 
世の中にある数少ない“絶対”の一つに「人の死」がある。
先の遺伝子組み換えを応用すれば「不老不死」も夢ではないとされるが、それが実現されれば今現在この世界に生きる「ヒト」とは別の生き物になるのではないか。
チンパンジーとヒトのゲノムは98%以上が相同であり、遺伝子がONになるタイミングの違いが種を分けているという仮説がある。次の世代のヒトが不老不死を実現するのであれば、同じ意味で違う種と見る事に違和感はないだろう。
 
少々話が飛ぶが「良い小説や映画の定義」を問われれば、多角的な論拠が飛び交うだろう。
だが、その一つとして「物語が終わりを迎える事に寂しさを感じる」を挙げる事に共感を感じる人は多いのではないか?
「まだ終わって欲しくない。もっとこの物語に触れていたい。もっとこの世界の余韻に浸っていたい。」
純粋な個人見解であるが、そんな物語の終わりの寂しさには、人が必ず迎える事になる死が多分に関係しているのではないかと思えてならない。
 
では導入パートの最後として、人が日常的に経験する「喪失の物語」について語ってみよう。
 
 
喪失と一口に言っても、そこには物質的な喪失、観念的な喪失等、様々な形態が確認できる。
だが、何れも喪失を嘆くのは、そこに“思い”があるからではないだろうか?
 
純粋に物質的な物であれば同じもの、或いは同等以上の代替品を購入すればよい話だ。
それによる財産の減少・思い入れのあったディテールの欠損を嘆く姿はあるかもしれないが、ここでいう「喪失の嘆き」にはそぐわないだろう。
 
思い出の品を失った。
これが悲しいのは物質的な物を失くしたからではない。
それが素敵なものであろうと哀しいものであろうと、忘れたくない思い出…消す事のできない感情が記録された物だからこそ、喪失感を感じるのであろう。
 
つまり言い換えれば、失ったものは物ではなく、心と言えるのではないだろうか?
 
酷い裏切りにあい、人を愛する気持ちを失った。
これは物とは無縁なものであるが、ここに喪失感を感じるのであれば、それは先ほどの例と同じ理屈が当てはまるのではないか。
 
では、大切な人を失った。この場合はどうであろう。
物的な意味で大切な人がこの世を去った…真っ先に浮かべるのはそんなシーンであろうが、ここではより抽象性を高めるために、大切な人との別れを思い浮かべていただきたい。
その大切な人は今尚健在だ。然しながら死別にも匹敵する今生の別れを経験した。
 
この場合の喪失とは、果たして昨日まで目の前にいた肉体的質感を伴う存在そのものであろうか?
それとも、自分の中で作られた観念的なイメージであろうか?
 
恐らくは後者であろう。
 
既に自分の一部となったイメージの変容、或いはぽっかりと空いた穴のような空白。
失ったものが純粋な物ではない故に、心の整理は容易ではなく、時に自身の自我的バックボーンさえも揺るがす重大事に成り得る事もあるだろう。
 
 
イメージの喪失による心の毀損を掴みやすいよう、ここで1つ具体例を挙げてみよう。
 
『アニマル梯団』でデビューしたお笑い芸人「おさる」は、時の占い師・細木数子の強権発動により「モンキッキー」に改名する事にw
その後、改名効果を尋ねられると「良かったのは1日だけ」と述懐している。
ちなみに2012年には、「モンキッキー」という芸名を出すのが嫌で、二人目の出産を機に元の芸名である「おさる」に戻したとの事。
どーでもよいが、相方の「コアラ」も細木数子に「ハッピーハッピー。」とやらに同時改名させられたが、当時だいぶ太り始めていたので個人的には「ピッグピッグ。」でも良かったのではと思っている。一応アニマル維持してるしw
 
なお余談であるが、現在の「おさる」はと言うと「ウッキー」とやらに改名して書道家として一定の成功を収めているらしい。
つか惜しかったな、改名!?(*''艸3`):;*。 プッ
 
と言ったところで、これが喪失による心の毀損である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
…って、心毀損したの数子の方かよっ!?Σ(´∀`||;)(爆)
 
 
 
さて、ここまで「悠久なる大義」と「喪失・隠蔽」を切り口に「物語」について考えてみたw
では、ここで一つ問いを出したいと思う。
最後に語った「大切な人の喪失」においては、何か“隠蔽”されるものはあるだろうか?
 
 
 
 
 
 
恐らくは、ない。
 
それは、個人的体験の物語においては、当人の原初的体験そのものも同時に保存されるからだろう。
「大切な人」を恋人関係と想定した時、奇を衒ったようなラブストーリの氾濫が恋愛観に与える影響もあろう。時が流れれば心の変化が生まれる事もきっとある。いつか青春時代の甘酸っぱい記憶として笑う時が来るのかもしれない。
だがそれは決して、その瞬間確かに存在した“純心”を隠蔽する事にはならない。
例えそれが時代の統制を受けた強制力のある価値観であったとしても、その瞬間を生き、その瞬間に感じた気持ちは、紛れもなく本物だ。
 
敢えて言うならば、「古き物語からの連続性を確保したまま、新しい物語を自ら紡いだ」…そういう事になるのだろう。
 
 
「物語」
 
それは、特定の事柄について人が語り継ぐ事、またその内容である。
また、語り継がれる時の中においては、複数の解釈を生み出す多元性を持ちつつ、悠久への同化を誘引するものである。
そして、時代と共に新たな世界観を生み出し、過去との断絶を図ると共に、根源的体験を隠蔽する力学が働くものである。
但し、個人の選択と経験を媒介にした時、古き物語を保存したまま、新しい可能性へと連れ立ってくれる大いなる可能性を秘めたものである。
 
 
鳥は高く天上に蔵れ、魚は深く水中に潜む。
鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。
 
 
最高だ。
 
何に思いを捧げ、そして何に殉じるか?
例えエピステーメに支配された世界観という留保があろうとも、ボクたちは自分の思いのままに選択する事ができる。
 

 
『世界は劇場であり、人生は演劇であり、人間は役者である』
 

これはファンタジスタが気紛れで語ったジャーゴンなどではない。

現代哲学のコンテキストからも語られる思想の一つだ。
 
複数の解釈が可能な言葉ではあるが、存在哲学の観点から捉えると「役者が存在するからこそ劇場が成り立ち、同時に、劇場という所与の設定があるからこそ役者が成立する」という世界と人間との間の同時生起性を読み取る事ができるだろうか。
 
仮に役者が存在しなければ演劇も劇場も瞬間消えるとして、ここで失われるものは一体なんなのだろう?
世界を満たしていたドラマというコンテンツなのか、或いはフレームとしての世界そのものなのか?
そして、この役者としての仮面を全て擲った先には、忘却して久しい「本物の生」を生きる自分自身なんてものを発見する事ができるのだろうか?
 
もしかしたら僕たちの生も、役に没頭する事で立ち上がる架空の物語のような世界なのかもしれない。
では、僕たちが自分の胸の感情を頼りに物語を綴ったとして、それは電子の海が織り成す世界に生起した使い捨ての役柄に過ぎないのか?
或いは「本物の生」を生きる“生身の僕たち自身”と言えるのだろうか?
 
 
恐らく、この問いに明確な答えを出す必要などないのだろう。
 
人間は無意識に自己に欠けたものを他者に投影する。羨望する事もあれば、自己否定を回避するため外部に対する攻撃性が強化される事もあろう。
そうして、投影された他者を通して自己を認識し、時に還元する。
他者も同様に自分に対して同じ投影をしていると考えれば、その意味で、人と人は常に相補的な関係にあると言えよう。
 
無論この関係性は、劇場・演劇・役者(仮面)抜きで語る事などできない。
そこにリアルもバーチャルもないだろう。
 
仮に運命的な物語があるとして…
それは“選ばれるべくして選ばれた一瞬”ではなく、“選んできた選択の連続”の果てにあるものなのだろう。
人は、何かを選ぶ事で、同時に選ばなかった何かを捨てる。それはきっと、ある可能性を選び、ある可能性を捨てるという事だ。
では、運命というものがあったとして、捨てた可能性の先にそれは存在しないと、一体誰が断言できるだろうか?
 
 
分かっている。
これは言葉遊び程度の気紛れなジャーゴンだ。
 
だが、唯一無二の運命を信じる代わりに、“運命の可能性”は一つではない、そう気紛れに宣言したところで誰も困りはしないだろう。
ここは劇場。舞台の幕は既に上がった。今やもう立派な役者だ。
己の選択ではなく、一方的に舞台に投げ入れられる事もあるだろう。だが、この舞台に立つ事で選択可能になった、この舞台の先でのみ待つ運命は、どのような境遇であろうと皆同じだ。
 
目の前に起こる奇跡の一瞬は、自ら掴み取り、自らが選んだ運命に他ならない。
 
 
そうであれば、演劇であれ役者であれ、キミと出逢ったという運命は、紛れもなくボクの人生の一部であろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「それなっ」て、あーた!? Σ(´∀`||;)
 
もう役者でも仮面でも何でも構わんよって話しをしてるのに、渾身の力強さでまたマスク取っちゃったよ、この人!?(;´Д`)
つか、毎度の事ながらシリアスパートまで台無しだなっ!?( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン(爆)
 
 
 
ここから一旦一番下まで下がって、上に向けて読み進めて下さい。
 
ボク達が残してきた歴史を遡り、振り返り、そして可能性という名の新たな「物語」に昇華させるように。
そして、今日もボクは詠う。
過去と未来が出逢う、現在という時間において。
世界の中心たるモンゴルの大草原の真ん中で(違w)
 
I chose this way of my own mind.
I had come under your spell. I don't know ever since.
If you're going then so am I.
We lived happily ever after.
 
日々あなた思い、一生が終わればいい。
日々あなた思い、一生が終えてもいい。
 
 
これもまた、「悠久の大儀」に生きるという、一つの終わりの形。
 
--- ここから ------------------------------------
 
 
 
※補足:古風呂大佐談
さて、チョコケーキですが…
実は重賞は早々と獲ってはいたのですが…
やはり送るならGⅠの口取り式スクショだろ!
と思っていたので、ここまで引っ張ってしまいましたが、もうタイムアップかなとも思いますので、少し残念ですがGⅡ優勝のスクショを送らせていただきますm(_ _)m
 
ちなみに、チョコケーキの1歳下の弟は、既にGⅠを獲っています…くそ?、なんてことだ!(;´༎ຶ ۝ ༎ຶ`)
 
※後日談
チョコケーキは結局GⅠには手が届かず、今は引退して種牡馬となっています。
弟のお話もしましたが、なんと一番下の妹は、32戦20勝、GⅠ8勝という名牝になりましたよ…チョコケーキ、不憫(笑)
 
 
古風呂大佐…お笑いの神降臨!
というか、天性のギフトとして「smile & happy」を与えられたものとしか思えない(*''艸3`):;*。 プッ(爆)
 
 
 
※補足
やっさんの「Son屹立」への作戦板投稿のために、なりふり構わず(?)10,000G以上の投資をして順当に「騎士団副団長」に昇格した古風呂大佐。そして、相変わらず2,000Gの差をつけられ「騎士団見習い」を脱しえない私ことびちぐそ阿乱。
果たして、この「ミッション6」の成否をかけた、デッドヒートの行く末は!?(; ・`д・´)…ゴクリ…(`・д´・ ;)(笑)
 
………
 
思い返す事、新年会開催より更に遡り昨年12月カウントダウンを控えた某日、「客寄せパンダとしてこっちに移籍しない?」の一言からずっと共にある古風呂大佐。
大佐→見習兵までの降格ギャグを踏まえて、最終日を迎えるまで投資額10,000Gを越える事なく「騎士団見習い」を維持してきた、ある意味真摯な姿勢w
私が「なりきり古風呂」をする中で飛び出した「より投資額の低い方が偽者です」のギャグを受けて、ユキからの鋭いツッコミ「外からは投資額は見えないよ!」を受けながらも、常に2,000G差を維持してきた、パーフェクトな逃げ馬www
 
何でもないギャグの一つだろうに、クライマックスのこの7日目を向かえ、この他愛のないちっぽけなエピソード一つを、途轍もなく愛おしく素敵な思い出と感じる私がいます(*''艸3`):;*。 プッ(爆)