雨が降るから、花が咲くのか。
花が咲くから、雨が降るのか。

この表現自体、作用の裏にそれを引き起こす作用者の存在がある事をちらつかせる発想だね。
或いは作用としての作用と、作用に付随する現象、本来的に一括りのものを人の視点で分割して重複解釈していると言えるのかな?

二文法に支配される世界は、概念的な主体を実体化しようとする。
本来的には、花を美しいとする意思も、それを大事に育もうとする意思も存在しないのかもしれない。


ボクの物語は、ここでお終い。

ハッピーエンドとは程遠い終わり方だったかもしれないし、終わってみればハッピーな記憶しか残らないのかもしれない。

でも、ここでいう物語に対して、幸福だったかと問いかける行為は、ある意味、花と雨と同じく形而上学的な視点と言えるのかな?
だったら最後はせめて、ボク達自身を形而上になど追いやらず、等身大の言葉でこの物語を締めくくろう。


出逢ってくれた、全ての人へ…
一緒に笑ってくれた、かけがえのない仲間たちへ…
そして、最後まで、真心を持って寄り添ってくれたキミへ…


貴方という全てに、ありがとう!

~Vernal Rainより真心をキミへ~



Vernal Rainより真心をキミへ01

Vernal Rainより真心をキミへ02

Vernal Rainより真心をキミへ03



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