ねぇ、今、目の前に広がるこの世界、貴方はこれを確信を持って本物だって断言できる?
あ、ごめん!世界っていうと抽象的過ぎて分かり難いよね?
じゃあ、そうだな…
今、貴方の書斎の窓際にあるチェリーウッドのデスクの上に、ブックカバーに包まれた書籍が置かれているでしょ。
そこにあるのは間違いなく書籍で、間違いなくそこに存在していると言えるのかな?
はい!持ち時間は1分…、は長いから10秒で!
あ、喋ってる内に時間が経過してるから、残り時間は後5秒ね?
文句言ってる暇があったら、早く考えなさい!ふふふ。
3、2、1、ぶー!時間切れ!
じゃあ、答え…聞かせてくれる?
………
長年使い慣れた書斎で、デスクもブックカバーも確かに自分の私物であり、机上に書籍を置いた記憶とも一致するから、間違いなく書籍はそこに存在する?
そうね。所謂、実証主義的な視点だね?
すごく単純な根拠だけど、一つ一つの事実が経験的実証に裏付けられているだけに、普通なら十分説得力のある説明って言えるよね?
でもね、人によっては、いちいちこんな説明しなくても、パッと見ただけで
「そこにあるの間違いなく本だから、普通に存在してるでしょ?何言ってんの?」
って人もきっといるでしょ?
或いは、実際にこうして手で触れてみて、書籍のページを指で捲って、そこに記載された文字を確かめるまで確証を持てないって、疑い深い人もいるかもしれないね?
反対に、今認識しているこの世界は全てまやかしで、ある日ふと目覚めたら全てが消えていた。
書籍自体もそこに記された情報も、全て外部から直接脳内に注入された幻想の産物である可能性を考えると、その存在に確信を持つ事は原理的に不可能だ…
そんなデカルト的懐疑主義を持って、存在の論証自体の不可能性を説く人もいるかもね?
否定するなら議論の余地を残すそれなりの根拠を示しなさいってツッコミたくなるけど、でも一応これも考慮に入れてみると、そもそも論でどうして人が何かの存在を証拠付けるなんて事ができるのかな?って疑問が沸いてこない?
書籍の存在議論が感覚的に分かり難いなら、「雨が降っている」とか「雪が降っている」とか別の命題で考えてみようか?
雨・雪が降る、若しくは近い将来降る…この事実を認識するためには幾つかの認識ポイントがあるでしょ。
例えば、天気予報の判断根拠に当たる大気の動向だったり、気温・湿度だったり。
これを将来を予測するという意味での兆候…間接的証拠とするなら、実際に雨・雪を見る、触れるっていう行為は直接的な証拠になる。
勿論さっきのデカルト的立場に立てば、空の上には実は雨雲なんてなくて、目に見えない妖精がじょうろから水を撒く気紛れな悪戯なのかもしれないって言い張る事もできるけど、この場は所謂常識を普通に受け入れられる「同じ舞台に立つ人」を想定するね。
あ!ちょっと今思いついたんで、脱線ついでに車線逆走してみると、仮に人間の持つ五感、或いは第六感も含めて、それと互換性のない器官しか持たない宇宙人が、私達と同じ事象に触れたとしたらどういう認識になると思う?
そうそう、人間の感覚ではその生態系を想像する事さえできないような、致命的で決定的な差異を持った存在ね。
……
セブンセンシズ?セイントセイヤ?
何それ?聖なる聖夜?あー、星の矢って書くのね?
Shooting Star Like a Arrow in the Starry Night.
何かロマンチックでビジュアル的な響きがあるよね?
うん。私、嫌いじゃないかな?セブンセンシズもセイントセイヤも。
…って、だから何の話よ!もう!わざとやってるでしょ?
貴方と話してると、こっちが宇宙人になった気分になるよ。ふふふ。
で、そもそも存在の成り立ち自体が違うであろう宇宙人にとっては、もしかしたら雨・雪どころか、書籍・デスクにさえ有意を見出せないかもしれないよね?
私たちが空気中に存在する微粒子を意識しなかったり、ダークマターなんかの素粒子を直接体感できないのと同じように。
つまりは「同じ舞台に立つ人」を想定した場合、議論以前に、恐らくは先見性とも言える根源的に共通する何かがある筈なんだよね?
雨・雪を確かめるために天気予報を見たり窓の外を覗く人はいても、今日の気分が楽しいか哀しいかで判断する人も、ダークマターが身体を貫く皮膚感覚で判断する人もいないでしょ?
先見的感覚として、生来的に証明する術を体得している。そう言えそうじゃない?
これって、世界が存在していて、そこに私たちが立っている…
私たちが認識するから世界が存在するって観念論的な立場ではなく、世界を記述する法則性、或いは方程式…それが私達に先見的に提示されているからこそ、起こりうる現象なんじゃないかなって?
うん。先見性の問題ではなく、全ては後天的な経験的学習によるものだ。そういう意見も当然出るよね。
でもさ、その後天的学習ですら、さっきの降雨・降雪という事象は喜怒哀楽では判断できない、これと同じ問題が常に当てはまる訳でしょ?
世界は常に、自己完結的で自己充足的で完全自立的な閉塞空間である。
そして、私たちは如何なる手段を持っても、この世界を直接記述する事はできない。
何故なら世界にとって私たちは、記述する対象に過ぎない完全なる外部性のものであるから。
よって、雨・雪・書籍然り、何かの存在を証明するとは、世界にそれを規定する記述式を先見的に示され、その枠組みの中で間接的証拠を集める行為である。
Q.E.D…なんちゃって?ふふふ。
纏めると「全ての事象は世界という法則・方程式の形で示され、経験的知識による後天的判断はこの上に成り立つ背後のゲームである」って感じかな。
あ!この世界を記述・規定する法則性・方程式的命題…ちょっと長ったらしいから略して「世界記述式」なんて呼ぶのどう?取り敢えず的にさ?
じゃあ、この世界記述式と外部に過ぎない私達の前提を受け入れたとしたら、愛情って一体何だと思う?
これも先見的に規定された、世界記述式による検証的行為に過ぎないのかな?
例え、私がどんなに愛を叫んだとしても、それは世界から見れば外部からの戯言に過ぎず、その在り様や意義に独自の意味を賦与するなんて、到底できないんだよね。
でもね?私の発する言葉…この言葉自体もまた世界記述式によって規定されている訳でしょ?
それなら、例え本質とは異なろうとも、そこにメタな意味を賦与する事はできるかもしれないよね?
もしかしたら、外部の外部は、内部になるのかもしれないしさ。
…え?それは流石に都合が良すぎるって?
ふんだ!いいですよーだ!
別に貴方と二人だけの世界を作りたいって私の気持ち、分かってくれなくても!
ねぇ?それより私、いい事思いついちゃったの。聞いてくれる?
って、その顔!どうせ禄でもないとか思ったでしょ?
何、さっきから?持ち時間10秒の仕返しのつもり?もうホント子供なんだから!
この世界の狭間に置きざられた言葉…
ここに横たわるメタファを、私達二人だけの世界の法則にしてみたら…どうかな?
逃避行の果てに、世界から身を隠せる唯一の隙間で、密かに身を寄せ合い愛を育む二人…って感じ?
あ!何か言ってるこっちが恥ずかしくなっちゃったよ。ふふふ。
でも、ホントはね?世界とか、記述とか、法則とか、そういうの全部関係ないんだ?
ねぇ、この書籍…恋愛小説の中で主人公が形而上の愛を叫ぶシーン、ここに栞を挟んだの私だよ?気付いてた?
栞のページを開けば、何度でも美しき物語を追体験できる。
私達の実感として、この小説も物語も確かにそこにある。
存在を確かめるなんて、それだけで十分なんだよ。
そして私は、確かに貴方が私の存在を認めていると実感したいだけ。
私の言葉が、確かに貴方に伝わっている。その実感が欲しいだけだから。
だからね?
例え、この世界に私の存在を否定される事になっても、私は私の言葉を信じるよ?
例え、この世界を壊す事になろうとも、私は私の信じた言葉を叫び続けるよ?
きっと、私達二人の世界は壊れないから…
ううん、叫び続ける事で維持される世界だってある筈だから。
そして、貴方には…貴方にだけは、この言葉に秘められた気持ち、きっと伝わるって信じてるから。
私は貴方を愛しています。
そして、世界の法則でも規則でもなく、自分自身の意思で貴方を愛する事ができる私は…
この世界で一番幸せです。
あ、ごめん!世界っていうと抽象的過ぎて分かり難いよね?
じゃあ、そうだな…
今、貴方の書斎の窓際にあるチェリーウッドのデスクの上に、ブックカバーに包まれた書籍が置かれているでしょ。
そこにあるのは間違いなく書籍で、間違いなくそこに存在していると言えるのかな?
はい!持ち時間は1分…、は長いから10秒で!
あ、喋ってる内に時間が経過してるから、残り時間は後5秒ね?
文句言ってる暇があったら、早く考えなさい!ふふふ。
3、2、1、ぶー!時間切れ!
じゃあ、答え…聞かせてくれる?
………
長年使い慣れた書斎で、デスクもブックカバーも確かに自分の私物であり、机上に書籍を置いた記憶とも一致するから、間違いなく書籍はそこに存在する?
そうね。所謂、実証主義的な視点だね?
すごく単純な根拠だけど、一つ一つの事実が経験的実証に裏付けられているだけに、普通なら十分説得力のある説明って言えるよね?
でもね、人によっては、いちいちこんな説明しなくても、パッと見ただけで
「そこにあるの間違いなく本だから、普通に存在してるでしょ?何言ってんの?」
って人もきっといるでしょ?
或いは、実際にこうして手で触れてみて、書籍のページを指で捲って、そこに記載された文字を確かめるまで確証を持てないって、疑い深い人もいるかもしれないね?
反対に、今認識しているこの世界は全てまやかしで、ある日ふと目覚めたら全てが消えていた。
書籍自体もそこに記された情報も、全て外部から直接脳内に注入された幻想の産物である可能性を考えると、その存在に確信を持つ事は原理的に不可能だ…
そんなデカルト的懐疑主義を持って、存在の論証自体の不可能性を説く人もいるかもね?
否定するなら議論の余地を残すそれなりの根拠を示しなさいってツッコミたくなるけど、でも一応これも考慮に入れてみると、そもそも論でどうして人が何かの存在を証拠付けるなんて事ができるのかな?って疑問が沸いてこない?
書籍の存在議論が感覚的に分かり難いなら、「雨が降っている」とか「雪が降っている」とか別の命題で考えてみようか?
雨・雪が降る、若しくは近い将来降る…この事実を認識するためには幾つかの認識ポイントがあるでしょ。
例えば、天気予報の判断根拠に当たる大気の動向だったり、気温・湿度だったり。
これを将来を予測するという意味での兆候…間接的証拠とするなら、実際に雨・雪を見る、触れるっていう行為は直接的な証拠になる。
勿論さっきのデカルト的立場に立てば、空の上には実は雨雲なんてなくて、目に見えない妖精がじょうろから水を撒く気紛れな悪戯なのかもしれないって言い張る事もできるけど、この場は所謂常識を普通に受け入れられる「同じ舞台に立つ人」を想定するね。
あ!ちょっと今思いついたんで、脱線ついでに車線逆走してみると、仮に人間の持つ五感、或いは第六感も含めて、それと互換性のない器官しか持たない宇宙人が、私達と同じ事象に触れたとしたらどういう認識になると思う?
そうそう、人間の感覚ではその生態系を想像する事さえできないような、致命的で決定的な差異を持った存在ね。
……
セブンセンシズ?セイントセイヤ?
何それ?聖なる聖夜?あー、星の矢って書くのね?
Shooting Star Like a Arrow in the Starry Night.
何かロマンチックでビジュアル的な響きがあるよね?
うん。私、嫌いじゃないかな?セブンセンシズもセイントセイヤも。
…って、だから何の話よ!もう!わざとやってるでしょ?
貴方と話してると、こっちが宇宙人になった気分になるよ。ふふふ。
で、そもそも存在の成り立ち自体が違うであろう宇宙人にとっては、もしかしたら雨・雪どころか、書籍・デスクにさえ有意を見出せないかもしれないよね?
私たちが空気中に存在する微粒子を意識しなかったり、ダークマターなんかの素粒子を直接体感できないのと同じように。
つまりは「同じ舞台に立つ人」を想定した場合、議論以前に、恐らくは先見性とも言える根源的に共通する何かがある筈なんだよね?
雨・雪を確かめるために天気予報を見たり窓の外を覗く人はいても、今日の気分が楽しいか哀しいかで判断する人も、ダークマターが身体を貫く皮膚感覚で判断する人もいないでしょ?
先見的感覚として、生来的に証明する術を体得している。そう言えそうじゃない?
これって、世界が存在していて、そこに私たちが立っている…
私たちが認識するから世界が存在するって観念論的な立場ではなく、世界を記述する法則性、或いは方程式…それが私達に先見的に提示されているからこそ、起こりうる現象なんじゃないかなって?
うん。先見性の問題ではなく、全ては後天的な経験的学習によるものだ。そういう意見も当然出るよね。
でもさ、その後天的学習ですら、さっきの降雨・降雪という事象は喜怒哀楽では判断できない、これと同じ問題が常に当てはまる訳でしょ?
世界は常に、自己完結的で自己充足的で完全自立的な閉塞空間である。
そして、私たちは如何なる手段を持っても、この世界を直接記述する事はできない。
何故なら世界にとって私たちは、記述する対象に過ぎない完全なる外部性のものであるから。
よって、雨・雪・書籍然り、何かの存在を証明するとは、世界にそれを規定する記述式を先見的に示され、その枠組みの中で間接的証拠を集める行為である。
Q.E.D…なんちゃって?ふふふ。
纏めると「全ての事象は世界という法則・方程式の形で示され、経験的知識による後天的判断はこの上に成り立つ背後のゲームである」って感じかな。
あ!この世界を記述・規定する法則性・方程式的命題…ちょっと長ったらしいから略して「世界記述式」なんて呼ぶのどう?取り敢えず的にさ?
じゃあ、この世界記述式と外部に過ぎない私達の前提を受け入れたとしたら、愛情って一体何だと思う?
これも先見的に規定された、世界記述式による検証的行為に過ぎないのかな?
例え、私がどんなに愛を叫んだとしても、それは世界から見れば外部からの戯言に過ぎず、その在り様や意義に独自の意味を賦与するなんて、到底できないんだよね。
でもね?私の発する言葉…この言葉自体もまた世界記述式によって規定されている訳でしょ?
それなら、例え本質とは異なろうとも、そこにメタな意味を賦与する事はできるかもしれないよね?
もしかしたら、外部の外部は、内部になるのかもしれないしさ。
…え?それは流石に都合が良すぎるって?
ふんだ!いいですよーだ!
別に貴方と二人だけの世界を作りたいって私の気持ち、分かってくれなくても!
ねぇ?それより私、いい事思いついちゃったの。聞いてくれる?
って、その顔!どうせ禄でもないとか思ったでしょ?
何、さっきから?持ち時間10秒の仕返しのつもり?もうホント子供なんだから!
この世界の狭間に置きざられた言葉…
ここに横たわるメタファを、私達二人だけの世界の法則にしてみたら…どうかな?
逃避行の果てに、世界から身を隠せる唯一の隙間で、密かに身を寄せ合い愛を育む二人…って感じ?
あ!何か言ってるこっちが恥ずかしくなっちゃったよ。ふふふ。
でも、ホントはね?世界とか、記述とか、法則とか、そういうの全部関係ないんだ?
ねぇ、この書籍…恋愛小説の中で主人公が形而上の愛を叫ぶシーン、ここに栞を挟んだの私だよ?気付いてた?
栞のページを開けば、何度でも美しき物語を追体験できる。
私達の実感として、この小説も物語も確かにそこにある。
存在を確かめるなんて、それだけで十分なんだよ。
そして私は、確かに貴方が私の存在を認めていると実感したいだけ。
私の言葉が、確かに貴方に伝わっている。その実感が欲しいだけだから。
だからね?
例え、この世界に私の存在を否定される事になっても、私は私の言葉を信じるよ?
例え、この世界を壊す事になろうとも、私は私の信じた言葉を叫び続けるよ?
きっと、私達二人の世界は壊れないから…
ううん、叫び続ける事で維持される世界だってある筈だから。
そして、貴方には…貴方にだけは、この言葉に秘められた気持ち、きっと伝わるって信じてるから。
私は貴方を愛しています。
そして、世界の法則でも規則でもなく、自分自身の意思で貴方を愛する事ができる私は…
この世界で一番幸せです。