実行する事が出来ないのなら約束などしない方が良い。

自分では実行可能であると判断しても
結果的に実行する事が出来ない事も多い。
大抵の場合は自分の中でのプライオリティの位置に依存するであろう。

その内容の重みに関わらず約束を守れない時にはペナルティを課せられる。
絶対的な条件で約束が出来るのは自分の内部で完結できる時のみであろう。
しかしそれは既に約束ではない。

総じて,約束はしない方が良い。


# 言い訳は正当化の手段。大抵は自分の為に自分にするものだ。
# そこに弁解の余地があろうと無かろうと。



【22歳 3月2日のキミへ】
約束の種類も多種多様だ。
実際に実行する事でしか果たせない約束もあれば、約束をする事自体に意味があるケースもあるだろう。

思うに、自分自身に対する約束は実行が伴わなければ、意味がないと言えるものが多いだろうか?
対して、第三者との約束であれば、約束を交わす行為それ自体に意味を見出せる事もある。

前者が、主観が主観を問う行為に内在する自己欺瞞に相当する問題を常に孕んでいるのに対して、後者は約束に先立ち、あらかじめ信頼形成が可能であると錯覚に浸れる事の差異であろうか?
例え錯覚であろうと、信頼の上に成り立つ約束であれば、約束を交わす行為自体を関係性強化の媒体に変換する事が可能に見える。

二人きりで、密かに約束を交わしあう。

その関係性自体がある種の目的達成、約束の永続的遵守に当たるのなら。
例え、約束を果たす事ができなくとも、自分が諦めさえ、捨てさえしなければ、少なくとも終わりが来るまでは決して約束を破った事にはならないのだから。


#法的効力を持つ契約行為ではなく、心理的な社会契約に準ずるものであるのなら。
#約束への積極誘導は、時に両者にとって最も大きな意義を持つ着地点になるのかもしれない。


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護れる約束だけをする。せめて護れる約束だけは守る。
そこに価値を見出すなら、プラトニックとも言えるこの精神的態度にこそあると言えるだろうか。
ある種の自己犠牲の精神は、純愛にも通じるものがあると感じる。

例えそれが青臭いと罵られようとも、一度信じたのなら、その決意自体を信じて最後まで貫き通すのも悪くないかもしれない。
それが約束を媒介する両者の関係性に対する、誠実なる態度の実践となるのなら。

動じる事なかれ。
怯む事なかれ。
立ち止まる事なかれ!