ねぇ、蜥蜴の尻尾切りってあるでしょ?
あれって痛いのかな?

……

蜥蜴の気持ちは分からないけど、少なくとも、自分の一部を置き去りにした寂しさは感じてる筈?
へー、そんな詩人みたいな感性も持っていたのね?驚いた!
って、冗談だよ!いちいち本気にしないの!

それじゃあ、もし、私が泣いてる姿を見たらどうかな?
貴方はどう思う?

…………

ありがとう!ちょっと嬉しかったかな?
特に「ボクの心も同じように痛むから哀しみも半分個だね?でも、泣きたい時は声を出して泣けばいいんだよ?哀しみに暮れる時間はボクがきっと拭い去るから」…ってセリフ。
何?そんなに慌てちゃって。照れてるの?ふふふ。


でも、私達のこの「同じように痛む」って言う共感は一体何処から来るのかな?
自分と同じように痛みを感じる筈だ。
この命題自体、検証不可能な部類に入るでしょ?その意味では、先の蜥蜴と比較しても両者に質的な差は見られない筈。

蜥蜴の尻尾が切り離されるのを見て、その痛みに共感ができるとしたら、それは自分の身体の一部が同じように切り離された時に感じるであろう痛みを想像して、そこから相手の置かれた状況を類推するから。
でもこれって、私が泣いている姿を見て、きっと哀しい事があったんだろうと類推するのと同じなんだよね?

私が涙を流しているのは真に哀しいからか、それとも哀しんだ振りをしているだけなのか。
原理的に本人にしか直接体験できない以上、第三者からは検証不可能な事象って言えるでしょ?
これが心の痛みから来るものだったら尚更。本人でさえも正確な心情を把握できないなんて事もあるしね。

でもさ?この意味では私も蜥蜴も同じになっちゃうけど、やっぱり両者は違うでしょ?
ちょっと切り口を変えてみようか?
幾ら蜥蜴の尻尾を輪切りに切り離しても、何かを失う空虚感は絶対に間接ですら体感できないしね。


そもそも論で、私たちはどうして「痛み」という共通感覚を持てるのか…
あ、これ、生物学的な話って言うよりかは、どっちかっていうと言葉遊びの方ね?
情報の開示範囲ってキーワードを足がかりにしてみると、例えば、そうだな…

「切なさに似た痛みを感じる程、キミの笑顔は美しい」って言った場合、情報の対象は純然たる外的基準…美しさのみで、それをどう解釈するかは、完全に受け取る当人の自己完結的問題って言えるよね?
つまりは、「切なさに似た痛み」は誰かに教わったり押し付けられるものではなくて、全面開示された事実を元に当人の価値感覚だけで解釈されたと。

じゃあ、さっきの話に戻って「キミが泣いているのは、哀しい事があったからに違いない」。
これを同じ文脈から読み解くとどうなるかな?

………

そう。泣いているという事実は全面開示されているけど、この場合の情報の対象は「心が哀しい」かどうか。
これは、泣くと言う事実により間接的に示される、謂わば部分開示の情報。ここが決定的な違いなんだよね。
そしてこの「哀しい」という目に見えない概念を体得、類推可能になるには、自身の経験と重ね合わせながら、第三者から教わるしかない。

つまりは、部分開示された外的基準…例えば涙を流しているという事実を持って、それを「哀しい」という概念に紐付ける。
そして、同じ外的基準を持って自分自身も「哀しい」と言う概念に帰属させる術を学ぶ。
ここで重要なのは「哀しい」って言う概念が単純な外的基準ではないって事を、同時に体得する事だよね。

ちなみにここで言う経験は直接経験に限らないって前提で、映像や文章なんかのメディアによる追体験でも可能だと思ってるんだけど、これだと感情移入の度合いによって「単純な外的基準ではない」って部分が弱くなる危険性もありそうだよね?
今って、こういう手軽で安っぽい感情輸出が氾濫してるから、私達も気を付けないとね。


結局、私と蜥蜴の場合、この外部基準ですら異なるから、本当の意味で共感を覚える事はできないって事なのかな。
そして、外部基準が同じ…少なくとも同じように見える人間同士の場合も、「恐らくは同じであろう」という無批判的無検証の論理に身を置く事で、初めて類推的コミュニケーションの舞台が成立する。

あ、言ってて思ったけど、「哀しい」とか検証不可能性の共通感覚が成立する根源的理由、もっと掘り下げていくとまた違った面白い議論ができそうだね?
でも、それはまた別の機会にって事で。

…って、何?今の嘆息。
もしかして話がこれ以上長くならなくて済んだって、安心してない?
ひどーい!今の私の心情、少しは類推してみなさいよ?ふふふ。


でもさ?この議論の立場に立った場合、前提として、発話の段階から恣意的幻想の埋め込みさえも許容されるって解釈もできるでしょ?
だったら、全てはコミュニケーションと言う名の空虚な現実ゲームに過ぎないのかな?
所詮は相互理解なんてありえないと分かっていながら、それでも目を逸らす事しかできないから、こんなにももどかしいのかな?
だからこそ、人は触れ合う事で心の距離を埋めようと思うのかな?

部分開示された情報だけでは、真の意味で理解する事ができないから、その不確実さを埋めるために、せめて自分の手で触れられるものだけは抱き留めておきたい。
例え、それが幻想だって気付いていたとしても、一過性の快楽に似た虚無感で自分自身さえも誤魔化して。


でもね…私、知ってるよ?

貴方の傷付いた心が、いつも泣いている事を。
私達の立つこの舞台は幻想ゲームかもしれないけど、私が感じるこの心は、貴方の胸にある心ときっと同じ。
そう信じても…いいよね?

ねぇ、その涙、私じゃ拭えないのかな?

どんなに哀しみを受け止め続けても、流す涙が止まらなければ、次に笑える日もやって来ないでしょ?
でも、私達の心に切り取り線はないから、空白感と引き換えに心の一部を切り離して、涙と決別するなんて事もできない。

だから、お願い…

この手が触れる貴方の頬の温もりが…この指が拭う貴方の涙の熱さが…
幻想だなんて思わせないで。
貴方には…貴方だけには、私を置き去りにしないで欲しいから。

ねぇ、私はここにいるよ?
どうか私を…


いつまでも離さないで。