何も考えない瞬間。
無限に広がる一瞬。
単純な生命活動の為だけに過ぎ去る時間。

必要であるからこそ起こりうる一時。
いずれ生命活動が停止されるのと同じように。



【22歳 2月23日のキミへ】
反動か、或いは防衛か。
何れにせよ必要であるからこそ起こり得る、と言う感覚は重要に思える。

魚が海を泳ぐ時、海流の速さや温度、圧力は感じているのだろうが、果たして自分の生きている世界が海の中である事、“海の中の世界に閉ざされている”事を認識できているのだろうか?
海面から飛び出せる飛魚なら、或いは認識できるかもしれない。
それでも海面に飛び出る事を忘れたのなら、同時に海の外に広がる世界も忘れるのだろう。

そして、人もまた同じであろうか?
ブランコは振り子だからこそ、加速度を増す事ができる。
それが一方向性のものであれば、何処に向かい加速しているのか、今は自分は何処にいるのか、それさえも分からなくなってしまうのではないだろうか?

思考が停止する瞬間。

それは、振り子の中心を把握し、自分を空間に位置付けるために必要な瞬間。
次なる世界への跳躍に必要な一つの波。
運動エネルギーだけでなく、位置エネルギーに目を転じれば、また印象が変わるかもしれない。


海の中から空を仰ぎ、海面上で揺らめく光のカーテンを眺める事はどれほど美しいだろう?
でも、海面から顔を出して、直に日差しの眩しさを感じるのも、また違う魅力があるだろう。

どちらが美しいか、ではない。
両者の間を揺らぐから、この世界の全てを美しいと思える。
では、我々にとって、海から見上げる光のカーテンと、海面から見る日差しは何に相当するだろう。
それはブランコの振り子と同じ。


道端に咲く一輪の花に目を奪われ、自然と歩みを止めた。
そんな経験したのいつだったか思い出せる?

ボクは、いつもそんな風景を探してるよ!


#波のピークがプラスとマイナスの二つあるからこそ、波である事を認識できる。