ある特定の事象に対して判断する際
思考に必要な判断材料を見落とす事が度々ある。
たった一つの欠落が事象の確実性を奪い
不確定に具象化され,その結果導き出される解は
それ以前の時点で既に不定となっている。

不定の解に対して確固たる自信を持つ事など出来るはずも無い。
解は一つではなく可能性として存在する
或いは用意に推測出来る別の解がありありと見えるからである。

条件として頂点二つの座標しか与えられていない状態で
解であるたった一つの三角形を求めるのと同じである。
当然,確率的には不可能と同義なのである。
# 過程は異なろうとも結果的に不定な解に辿り着けば
# 私でなくとも同じ感覚を持つであろう。


では,思考の焦点が大きく逸脱していたらどうであろう。
基本的な事柄の定義が大きくずれていたらどうであろう。
既に確立された境界条件が容認される誤差の範囲を超えていたらどうであろう。

二次元の平面で周囲が物事を捉えているとして
それに一次元加えられた空間で物事を考えていたら。
例え導き出された三角形が同一のもの,相似性を持っていても
空間的には全く別物になる可能性がある。
そしてそれは確率的に絶対と同義であろう。

別の表現を用いるのなら前提として
偏見や主観等,あってはならない点座標が既に存在していたら。
図形として次元の異なる四角形が解として現れる。


結局境界条件が共通な領域にしか棲息出来ないのである。
この世界で私の存在出来る領域は存在するであろうか。



【22歳 2月21日のキミへ】
可能性としての解を前提とした場合、特定の命題を論じる際の絶対条件・境界条件さえも明確には判定できない事になる。
判定するための手段でさえも、絶対的な舞台で論じられないのなら、あるのは問いかけの無限連鎖のみ。
だからこそ、ある一定の約束事・暗黙的了解を持って、可能性としての解を、許容可能な閾値内に共通認識として収斂させる、手続き型言語の規則性が有効となる。

では、この前提に立った場合、別の座標軸が存在していたケースをどのように解釈できるか?

形は相似的であっても、空間的には別物…
この事象も、ある操作を施す事で許容範囲内の一致と見なせるのなら、大きな意味を持つものになるのではないか?
例え、その本質がまやかしの近似であろうとも、現実解としてそれを共通認識と呼べるのなら。

例えば、遠近法を使えるなら、大きさは如何様にもなる。
光源の位置を調整できるなら、一つ下の次元に影として展開される図形を完全一致させる事も可能な筈だ。

そしてこの操作を可能とするものは、恐らく視点のコントロール。
即ち、思考による跳躍であろう。


#そもそも絶対的な条件が存在しえるなら、きっと人は必然的に共通領域に棲息する事になる。
#そして、こんな苦悩が存在する事自体が、恣意的な条件付けが跋扈している証左か?