”………”
遠くから響くような音。
鈴の音?
"… シャーン…”
その音に呼ばれるように、無意識に振り向く。
突然飛び込む空の青さに、軽く目を細めた。
陽光の輪郭に掘り出されたような、濃い影に導かれ、足を踏み出す。
"… シャーン…シャーン…”
フェンス沿いに続く道。規則正しい影の道標。
運動場のレーン 。正確に左右対称な楕円を描く。
白く延びるライン上のハードル。等間隔に空間を刻む。
整然とした幾何学的風景に、ぼんやりと視線を向けていると、風のように視界を過ぎる1つの影。
いや…光?
その光の輪郭は、曖昧な境界線を滲ませたまま、軽やかなリズムで地面を蹴る。
どんな障壁も視界に入らないかのように、空を舞う鳥の如く宙を翔けた。
その迷いのない跳躍は、どこまでも続く空の彼方、遥かその先を見据えているように。
"… シャーン…シャーン…”
ボクは、心を奪われた。
止まった時間、切り抜かれた空、その背中には、確かに翼がはためいていた。
それは、羽ばたく度に羽根を舞い散らせる、傷つく事を省みない、繊細な翼だった。
その日、ボクは空を舞う天使を見た。
- [Horsaga: Another Dust] Flutter in the Sky -
「なあ、お前、ハードルやってて、楽しい?」
「は?何、突然?
誰だか知らないけど、楽しいからやってるに決まってるでしょ?」
「いや。なんかさ、俺にはそんな風に見えなくて。
なんつーか…、やらなくちゃいけないから、やってる…みたいな感じ?
うまく言えないけど、自分で、自分に、そんな足枷みたいの付けてるように見えてさ。」
「言ってる意味分かんないんだけど。何であんたがそんな事気にするのよ?
大体なんなの?こんな時間まで。いつもここにいるよね?
何?私のストーカな訳?」
「ストーカなんてしてねーだろ?
俺は、いつも、ここで本読んでるだけ。俺が本読んでるところで、お前が走ってんだろ?」
「もう真っ暗じゃん?外灯のないベンチで本なんて読めるわけないでしょ?
バカじゃないの!?」
立ち去ろうと、背中を向ける。
「なんかさ、音が聞こえる気がするんだ。シャーンって…」
「………」思わず足を止める。
「最初、鈴の音かと思ったけど、これ、きっと鎖の音だ。
憂鬱な“ラのフラット”…
最近ずっと、右足、庇ってるよな?怪我でもしたのか?」
「………」
「なぁ、簡単に止めるなんて言うなよ?
俺、ずっと見てたから分かるんだ。お前、走る事に全て賭けてんだろ?」
「あんたに何が分かるの!?勝手な事ばっかり言って!
もう私に構わないでよ!!」
見知らぬ人間に、胸の奥を見透かされたような動揺。
苛立たしい気持ちと一緒に、振り払うようにベンチの前を通り過ぎた。
もうすぐ4月だ。
葉桜の季節。新しい季節の訪れを告げる新緑の風。
随分と暖かくなったが、それでも、雨の降る今日のような日は、少し肌寒い。
あの日から、ハードルは飛んでいない。
学校の運動場にも足を運んでいない。
ランニングシューズを見ながら、先日告げられた、医者の言葉を思い出す。
…これ以上無理をすると、将来の歩行にも影響を与えるかもしれない。
…今が大事なのは十分承知しているが、将来、後悔しないためにも、今は足に負担を掛けるべきではない。
…陸上の大会は、残念だけど、今回は諦めた方がよい。
そんなような趣旨の事を言っていたように思う。
今思い返すと、私の事を何も知らない一介の医者が、将来云々を語る事に、多少の腹立たしさを覚える。
明らかに八つ当たりだ。でも、この時は、ただ呆然と聞いているのが精一杯だった。
違う。きっと当たっているのは自分自身になのだろう。
何かを諦めて何かを捨てる人生に意味なんかない。
何かを犠牲にしようとも、今この瞬間を全力疾走できるような、そんな生き方をしてみたい。
即座にそう反論できなかった自分自身に。
暫くは走る事から離れた。ただ過ぎ去るだけの無為な時間を過ごした。
それでも、そんな日が何日か続くと、他にする事があるべくもなく、結局は、惰性だけで毎日ジョギングを続けるようになった。
他にする事もないから。
これが言い訳である事は、分かっている。
将来とのトレードオフについて、真剣に考えた訳でもない。
医者の言葉に反してまで、走り続ける理由。そんなものは明らかだ。
自分には走る事しかない、他には何もないんだから。
この行為はきっと、そんな抑えられない気持ちの埋め合わせなんだろう。
整理の付かない漠然とした気持ちを抱えたまま、レインウェアを身に纏い、外に出る。
雨に打たれると、奪われる身体の体温と共に、心も少し冷えたような感覚。
川沿いのサイクリングコースに向けて、足を踏み出す。
この雨なら、きっと貸切状態だ。
決して気は乗らないけど、気を紛らわせるには、丁度いいのかもしれない。
単調な道を、無心で走る。
規則的な雨の音が、感情の起伏も平坦に抑えてくれている、そんな感覚。
川に沿って、緩やかな右カーブ、右足の負担を軽減するため、慎重に減速する。
不意に、左斜面、土手の中腹に眼が留まる。
傘も差さずに座っている後ろ姿。
そのまま速度を落とし、ゆっくりと近付いた。
無視する事もできたけど、怒りに任せて一言言わずにはいられなかったから。
「何やってんの?こんなところで!」
「見て分かんね?本読んでるんだけど。」
「は?雨降ってるし、本、濡れてるじゃん!?」
「お前だって、雨降ってるのに、走ってるじゃん。」
「私は、レインコート着てるから…って、バカじゃないの!?」
呆れて怒る気もなくなった。
立ち去ろうとする背中に、掛けられる声。
「なあ?ハードル、止めるの?」
「…知ってんでしょ?
…もう跳べないって。
このまま続けても先が見えないんなら、辛い思いするだけなら…
続ける意味ないじゃん!」
「でも、まだ走ってる。毎日走り続けてる。
止められないなら、未練があるなら…
気の済むまで続ければいいだろ?」
「だから、わかった風な口聞かないで!
あんたに何がわか…!?!?」
"… シャーン…”
唐突に挙げられた左手に、眼が釘付けになる。
手首に繋がれた鎖が、はっきりと見えた。
雨の音にかき消されそうになりながらも、微かに聞こえた音。
憂鬱な“ラのフラット”
「お前のは理不尽な事故みたいなもんだろ?
俺のは違うんだ。この左手に付けられた枷は、きっと呪詛なんだよ。」
「な、何でこんなものが見えて…
だ、だからって、あんたに何ができるって言うの!
ホントは、未練を捨てきれず、ずるずる続けてる私を笑いたいんじゃないの!?」
「笑うわけねーだろ!
ずるずる続けて何が悪い!?簡単に手放せない程大切なものなんだろ?
お前が、お前自身を離してどうすんだよ!?だったらずっと抱きしめててやれよ!」
「……!?」
自分で自分を離そうとしていた?
思いもかけぬ言葉に、涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。
「簡単に諦めて手放せるような人間に、何の魅力も感じないよ。
今止めて、ホントに悔いが残んねーのか?今止めて、よくやったって自分を褒められるのか?
やれるだけやってみなよ。
重くなったら、全部俺が背負ってやる。俺が支えてやる。
多分、俺の左手のこれは、俺が抱えなくちゃいけない罪と罰だから。
きっと、俺にしか、俺だからこそできる仕事だから。」
「……」
被っていたフードを乱暴に取って俯いた。雨に打たれるままに任せる。
今度は、溢れる涙を抑えられる自信がなかったから。
徐々に離れていく背中。再び土手の中腹に腰を下ろす姿が、視界の片隅に写る。
きっと見て見ぬ振りをしてくれたのだろう。
その優しさに応えるのなら、このまま立ち去るのが正解かもしれない。
それでもやっぱり、素直な気持ちを伝えずにはいられなかった。
「ねぇ…別に…あんたに言われたからじゃないからね…」
「何が?俺は好きで、ここでこうして本を読んでるだけ。
俺が本を読んでるところで、たまたまお前が走ってた。
それだけだろ?」
「字が滲んじゃって、もう何にも読めないじゃない…
…バカ…」
素直になんてなれなかった。
それでも、雨に濡れる横顔から覗いた唇の端が、微かに上がったのが見えると、何故か気持ちは伝わったんじゃないかと、勝手な事を思った。
…今、ここにいる意味。そんなもの、今ここで答えを出す必要はないから…
…だから今、自分の好きな事をやる。それを不誠実とは思わないよ…
そんな風に、自分を肯定してくれる声が、何処かから聞こえた気がしたから。
そして、無遠慮に振り続ける雨の雫が、涙の痕を完全にかき消した。
憂鬱な“ラのフラット”の音と、“ありがとう”の言葉と共に。
生きるには十分過ぎる。余りにも長い。
そんな人生において、情熱なんてものは、一過性の熱病みたいなものかもしれない。
結局、彼女は、その後もハードルを続け、高校最後の大会に出場した。
大会の結果が、彼女にとって本位なものであったのか。
それは、ここで語るには及ばないであろう。
果たして、ハードルを続けた事に意味があったと言えるのか。
それもまた、今ここで論じるべき命題ではない。
そして、会場の何処にも、彼の姿はなかった。
最も、何処かにいたとして、彼に言わせれば、偶然本を読んでいたところで、偶然大会が始まった。
そういう事になるんだろう。
いつも、同じベンチで、いつまでも同じ本を読んでいた彼。
眼に付かない筈がない。
でも何故か、いつも一緒にいた筈の部活の友達は、口を揃えて、見た覚えがないと言う。
誰の記憶にも存在しない。私以外、誰一人の記憶にも。
一体、彼は何者だったのか?
そして、二人の間に見えていた鎖は、何だったのか?
それもまた、追及する必要はない瑣末事なんだろう。きっと。
二人の間には、二人の間でしか語りえぬ、共感覚のような共有認識があった。
これもまた、微熱の生んだ夢幻の一部かもしれないのなら、今はその理解だけで必要十分だろう。
"… シャーン…シャーン…”
彼女の右足に付けられた枷は、まだ消えていない。
だけど、全てを受け容れ、迷いのなくなったそれは、足取りだけでなく、鳴り響く音もまた軽くなった気がする。
駆け抜ける足音が刻む、軽快な8ビート…"ドのシャープ"
"… シャーン…シャーン…”
彼の左腕に付けられた枷もまた、消えていないのだろう。
どこからともなく聞こえてくる…“ラのフラット”
これが彼の言う呪詛ならば、他に、もう少し相応しい表現があるのではないか。
でも、今はその表現のままでもいい。
憂鬱な感情は、全部引き受ける。そんな彼なりの覚悟を感じ取れるようで、少しだけ優しい気持ちになれるから。
それに、“ドのシャープ"と、“ラのフラット”…
少しぎこちないけれど、和音としては、決して悪くないよね?
僕達は、大人になっていく過程で、少しずつ何かを捨てて、少しずつ何かを諦めて、少しずつ現実を受け入れていく。
心に宿った微熱のような情熱の欠片も、いつかは何かに取り替えられるかもしれない。
何処かに置き去りにされるかもしれない。
誰にも気付かれないまま、消えてなくなるかもしれない。
きっといつかは、どんな道でも、シューズを脱ぐ時が来る。
きっといつかは、この幾何学的風景もなくなる。
日が落ちれば、フェンスの影は傾き、全てが闇に包まれる。
運動場のレーンを走る人影はなくなり、静寂だけが空間を支配する。
そして、等間隔に並んだハードルも、今はもうない。
それでも、記憶の中で軽やかに舞い上がる光と影は、色褪せる事なく、青い空を背景に明確なコントラストを描いている。
語りえぬ記憶、忘れえぬ記録。もう一度取り出せる思い出。
そっと目を瞑って、記憶の中の幾何学的風景を再生する。
…Pink Flutter…
舞い散る桜を背景に、顔を見合わせて、そして、少しだけ笑った。
鳴り響くぎこちない和音。
そこには、僕等がいた。
- Flutter in the Sky [We Were There] -
【関連】[Horsaga: Another Dust] Flutter in the Sky - Pull UP & Bull One's Way -
http://ameblo.jp/layer-zer0/entry-12144285584.html
【著者解説】
早速ですが、今回もこの場を借りて、言い訳を。
今回は、(事前にある程度の骨格はできあがっていたものの、)映像ではなく、音を主題に文章を起こす試みであり、そのモチーフとして、無意識下の心理的制約・拘束を意味する鎖(足枷)を採用したわけですが、まぁ、何というか、この必然性の賦与に完全に失敗してます。(;・∀・)
一応、第三者の救済により人は救われる的な、綺麗な方向に持っていこうと思ったのですが、如何せん、男性側に丁度しっくりくるエピソードが思い付かん…(;´Д`)
最終的に、共感覚的なビジョン=その存在すらも夢幻の如く的なオチで、サラッと片付けましたが、それが何か?( ゚Д゚)y─┛~~
って、いい訳ってゆーか、単なる開き直りか~いっ!?( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン
つか、本当に伝えたい事はそこじゃないんだ。
誓って言う。そこじゃないんだ。
このままじゃ、ボクの気が晴れないので、改めて、真面目に…
今回も…
ギャグなしで、本当に申し訳ございませんでした!
…って、誤るとこ、そこか~~いっ!?!?( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン
簡単でしたが、最後に一言補足を。
「Pink Flutter」は、豚列助へのオマージュですwww
遠くから響くような音。
鈴の音?
"… シャーン…”
その音に呼ばれるように、無意識に振り向く。
突然飛び込む空の青さに、軽く目を細めた。
陽光の輪郭に掘り出されたような、濃い影に導かれ、足を踏み出す。
"… シャーン…シャーン…”
フェンス沿いに続く道。規則正しい影の道標。
運動場のレーン 。正確に左右対称な楕円を描く。
白く延びるライン上のハードル。等間隔に空間を刻む。
整然とした幾何学的風景に、ぼんやりと視線を向けていると、風のように視界を過ぎる1つの影。
いや…光?
その光の輪郭は、曖昧な境界線を滲ませたまま、軽やかなリズムで地面を蹴る。
どんな障壁も視界に入らないかのように、空を舞う鳥の如く宙を翔けた。
その迷いのない跳躍は、どこまでも続く空の彼方、遥かその先を見据えているように。
"… シャーン…シャーン…”
ボクは、心を奪われた。
止まった時間、切り抜かれた空、その背中には、確かに翼がはためいていた。
それは、羽ばたく度に羽根を舞い散らせる、傷つく事を省みない、繊細な翼だった。
その日、ボクは空を舞う天使を見た。
- [Horsaga: Another Dust] Flutter in the Sky -
「なあ、お前、ハードルやってて、楽しい?」
「は?何、突然?
誰だか知らないけど、楽しいからやってるに決まってるでしょ?」
「いや。なんかさ、俺にはそんな風に見えなくて。
なんつーか…、やらなくちゃいけないから、やってる…みたいな感じ?
うまく言えないけど、自分で、自分に、そんな足枷みたいの付けてるように見えてさ。」
「言ってる意味分かんないんだけど。何であんたがそんな事気にするのよ?
大体なんなの?こんな時間まで。いつもここにいるよね?
何?私のストーカな訳?」
「ストーカなんてしてねーだろ?
俺は、いつも、ここで本読んでるだけ。俺が本読んでるところで、お前が走ってんだろ?」
「もう真っ暗じゃん?外灯のないベンチで本なんて読めるわけないでしょ?
バカじゃないの!?」
立ち去ろうと、背中を向ける。
「なんかさ、音が聞こえる気がするんだ。シャーンって…」
「………」思わず足を止める。
「最初、鈴の音かと思ったけど、これ、きっと鎖の音だ。
憂鬱な“ラのフラット”…
最近ずっと、右足、庇ってるよな?怪我でもしたのか?」
「………」
「なぁ、簡単に止めるなんて言うなよ?
俺、ずっと見てたから分かるんだ。お前、走る事に全て賭けてんだろ?」
「あんたに何が分かるの!?勝手な事ばっかり言って!
もう私に構わないでよ!!」
見知らぬ人間に、胸の奥を見透かされたような動揺。
苛立たしい気持ちと一緒に、振り払うようにベンチの前を通り過ぎた。
もうすぐ4月だ。
葉桜の季節。新しい季節の訪れを告げる新緑の風。
随分と暖かくなったが、それでも、雨の降る今日のような日は、少し肌寒い。
あの日から、ハードルは飛んでいない。
学校の運動場にも足を運んでいない。
ランニングシューズを見ながら、先日告げられた、医者の言葉を思い出す。
…これ以上無理をすると、将来の歩行にも影響を与えるかもしれない。
…今が大事なのは十分承知しているが、将来、後悔しないためにも、今は足に負担を掛けるべきではない。
…陸上の大会は、残念だけど、今回は諦めた方がよい。
そんなような趣旨の事を言っていたように思う。
今思い返すと、私の事を何も知らない一介の医者が、将来云々を語る事に、多少の腹立たしさを覚える。
明らかに八つ当たりだ。でも、この時は、ただ呆然と聞いているのが精一杯だった。
違う。きっと当たっているのは自分自身になのだろう。
何かを諦めて何かを捨てる人生に意味なんかない。
何かを犠牲にしようとも、今この瞬間を全力疾走できるような、そんな生き方をしてみたい。
即座にそう反論できなかった自分自身に。
暫くは走る事から離れた。ただ過ぎ去るだけの無為な時間を過ごした。
それでも、そんな日が何日か続くと、他にする事があるべくもなく、結局は、惰性だけで毎日ジョギングを続けるようになった。
他にする事もないから。
これが言い訳である事は、分かっている。
将来とのトレードオフについて、真剣に考えた訳でもない。
医者の言葉に反してまで、走り続ける理由。そんなものは明らかだ。
自分には走る事しかない、他には何もないんだから。
この行為はきっと、そんな抑えられない気持ちの埋め合わせなんだろう。
整理の付かない漠然とした気持ちを抱えたまま、レインウェアを身に纏い、外に出る。
雨に打たれると、奪われる身体の体温と共に、心も少し冷えたような感覚。
川沿いのサイクリングコースに向けて、足を踏み出す。
この雨なら、きっと貸切状態だ。
決して気は乗らないけど、気を紛らわせるには、丁度いいのかもしれない。
単調な道を、無心で走る。
規則的な雨の音が、感情の起伏も平坦に抑えてくれている、そんな感覚。
川に沿って、緩やかな右カーブ、右足の負担を軽減するため、慎重に減速する。
不意に、左斜面、土手の中腹に眼が留まる。
傘も差さずに座っている後ろ姿。
そのまま速度を落とし、ゆっくりと近付いた。
無視する事もできたけど、怒りに任せて一言言わずにはいられなかったから。
「何やってんの?こんなところで!」
「見て分かんね?本読んでるんだけど。」
「は?雨降ってるし、本、濡れてるじゃん!?」
「お前だって、雨降ってるのに、走ってるじゃん。」
「私は、レインコート着てるから…って、バカじゃないの!?」
呆れて怒る気もなくなった。
立ち去ろうとする背中に、掛けられる声。
「なあ?ハードル、止めるの?」
「…知ってんでしょ?
…もう跳べないって。
このまま続けても先が見えないんなら、辛い思いするだけなら…
続ける意味ないじゃん!」
「でも、まだ走ってる。毎日走り続けてる。
止められないなら、未練があるなら…
気の済むまで続ければいいだろ?」
「だから、わかった風な口聞かないで!
あんたに何がわか…!?!?」
"… シャーン…”
唐突に挙げられた左手に、眼が釘付けになる。
手首に繋がれた鎖が、はっきりと見えた。
雨の音にかき消されそうになりながらも、微かに聞こえた音。
憂鬱な“ラのフラット”
「お前のは理不尽な事故みたいなもんだろ?
俺のは違うんだ。この左手に付けられた枷は、きっと呪詛なんだよ。」
「な、何でこんなものが見えて…
だ、だからって、あんたに何ができるって言うの!
ホントは、未練を捨てきれず、ずるずる続けてる私を笑いたいんじゃないの!?」
「笑うわけねーだろ!
ずるずる続けて何が悪い!?簡単に手放せない程大切なものなんだろ?
お前が、お前自身を離してどうすんだよ!?だったらずっと抱きしめててやれよ!」
「……!?」
自分で自分を離そうとしていた?
思いもかけぬ言葉に、涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。
「簡単に諦めて手放せるような人間に、何の魅力も感じないよ。
今止めて、ホントに悔いが残んねーのか?今止めて、よくやったって自分を褒められるのか?
やれるだけやってみなよ。
重くなったら、全部俺が背負ってやる。俺が支えてやる。
多分、俺の左手のこれは、俺が抱えなくちゃいけない罪と罰だから。
きっと、俺にしか、俺だからこそできる仕事だから。」
「……」
被っていたフードを乱暴に取って俯いた。雨に打たれるままに任せる。
今度は、溢れる涙を抑えられる自信がなかったから。
徐々に離れていく背中。再び土手の中腹に腰を下ろす姿が、視界の片隅に写る。
きっと見て見ぬ振りをしてくれたのだろう。
その優しさに応えるのなら、このまま立ち去るのが正解かもしれない。
それでもやっぱり、素直な気持ちを伝えずにはいられなかった。
「ねぇ…別に…あんたに言われたからじゃないからね…」
「何が?俺は好きで、ここでこうして本を読んでるだけ。
俺が本を読んでるところで、たまたまお前が走ってた。
それだけだろ?」
「字が滲んじゃって、もう何にも読めないじゃない…
…バカ…」
素直になんてなれなかった。
それでも、雨に濡れる横顔から覗いた唇の端が、微かに上がったのが見えると、何故か気持ちは伝わったんじゃないかと、勝手な事を思った。
…今、ここにいる意味。そんなもの、今ここで答えを出す必要はないから…
…だから今、自分の好きな事をやる。それを不誠実とは思わないよ…
そんな風に、自分を肯定してくれる声が、何処かから聞こえた気がしたから。
そして、無遠慮に振り続ける雨の雫が、涙の痕を完全にかき消した。
憂鬱な“ラのフラット”の音と、“ありがとう”の言葉と共に。
生きるには十分過ぎる。余りにも長い。
そんな人生において、情熱なんてものは、一過性の熱病みたいなものかもしれない。
結局、彼女は、その後もハードルを続け、高校最後の大会に出場した。
大会の結果が、彼女にとって本位なものであったのか。
それは、ここで語るには及ばないであろう。
果たして、ハードルを続けた事に意味があったと言えるのか。
それもまた、今ここで論じるべき命題ではない。
そして、会場の何処にも、彼の姿はなかった。
最も、何処かにいたとして、彼に言わせれば、偶然本を読んでいたところで、偶然大会が始まった。
そういう事になるんだろう。
いつも、同じベンチで、いつまでも同じ本を読んでいた彼。
眼に付かない筈がない。
でも何故か、いつも一緒にいた筈の部活の友達は、口を揃えて、見た覚えがないと言う。
誰の記憶にも存在しない。私以外、誰一人の記憶にも。
一体、彼は何者だったのか?
そして、二人の間に見えていた鎖は、何だったのか?
それもまた、追及する必要はない瑣末事なんだろう。きっと。
二人の間には、二人の間でしか語りえぬ、共感覚のような共有認識があった。
これもまた、微熱の生んだ夢幻の一部かもしれないのなら、今はその理解だけで必要十分だろう。
"… シャーン…シャーン…”
彼女の右足に付けられた枷は、まだ消えていない。
だけど、全てを受け容れ、迷いのなくなったそれは、足取りだけでなく、鳴り響く音もまた軽くなった気がする。
駆け抜ける足音が刻む、軽快な8ビート…"ドのシャープ"
"… シャーン…シャーン…”
彼の左腕に付けられた枷もまた、消えていないのだろう。
どこからともなく聞こえてくる…“ラのフラット”
これが彼の言う呪詛ならば、他に、もう少し相応しい表現があるのではないか。
でも、今はその表現のままでもいい。
憂鬱な感情は、全部引き受ける。そんな彼なりの覚悟を感じ取れるようで、少しだけ優しい気持ちになれるから。
それに、“ドのシャープ"と、“ラのフラット”…
少しぎこちないけれど、和音としては、決して悪くないよね?
僕達は、大人になっていく過程で、少しずつ何かを捨てて、少しずつ何かを諦めて、少しずつ現実を受け入れていく。
心に宿った微熱のような情熱の欠片も、いつかは何かに取り替えられるかもしれない。
何処かに置き去りにされるかもしれない。
誰にも気付かれないまま、消えてなくなるかもしれない。
きっといつかは、どんな道でも、シューズを脱ぐ時が来る。
きっといつかは、この幾何学的風景もなくなる。
日が落ちれば、フェンスの影は傾き、全てが闇に包まれる。
運動場のレーンを走る人影はなくなり、静寂だけが空間を支配する。
そして、等間隔に並んだハードルも、今はもうない。
それでも、記憶の中で軽やかに舞い上がる光と影は、色褪せる事なく、青い空を背景に明確なコントラストを描いている。
語りえぬ記憶、忘れえぬ記録。もう一度取り出せる思い出。
そっと目を瞑って、記憶の中の幾何学的風景を再生する。
…Pink Flutter…
舞い散る桜を背景に、顔を見合わせて、そして、少しだけ笑った。
鳴り響くぎこちない和音。
そこには、僕等がいた。
- Flutter in the Sky [We Were There] -
【関連】[Horsaga: Another Dust] Flutter in the Sky - Pull UP & Bull One's Way -
http://ameblo.jp/layer-zer0/entry-12144285584.html
【著者解説】
早速ですが、今回もこの場を借りて、言い訳を。
今回は、(事前にある程度の骨格はできあがっていたものの、)映像ではなく、音を主題に文章を起こす試みであり、そのモチーフとして、無意識下の心理的制約・拘束を意味する鎖(足枷)を採用したわけですが、まぁ、何というか、この必然性の賦与に完全に失敗してます。(;・∀・)
一応、第三者の救済により人は救われる的な、綺麗な方向に持っていこうと思ったのですが、如何せん、男性側に丁度しっくりくるエピソードが思い付かん…(;´Д`)
最終的に、共感覚的なビジョン=その存在すらも夢幻の如く的なオチで、サラッと片付けましたが、それが何か?( ゚Д゚)y─┛~~
って、いい訳ってゆーか、単なる開き直りか~いっ!?( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン
つか、本当に伝えたい事はそこじゃないんだ。
誓って言う。そこじゃないんだ。
このままじゃ、ボクの気が晴れないので、改めて、真面目に…
今回も…
ギャグなしで、本当に申し訳ございませんでした!
…って、誤るとこ、そこか~~いっ!?!?( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン
簡単でしたが、最後に一言補足を。
「Pink Flutter」は、豚列助へのオマージュですwww