死の先にある完全なる無

自我の境界も無く,知覚すら持たない存在
考えれば考える程
無意味で終わりなき思考の迷宮に迷い込む

(中略)

然しながらドラッグが無造作に転がり
燃やされ焦げ跡が残り
解けて捻じ曲がった睡眠薬のパケットを目の当たりにした時
初めて恐怖を感じた



今の自分にとっては生と死は全くの当価値
生きる理由も無ければ死ぬ理由も無い
然し死ぬ理由が無い事が生きる理由であり
生きる理由が無い事が死なない理由でもある


最近特に死について考える事が増える

この世界で自分の存在などあってないようなものだ
生きていようが,死のうが周りに与える影響力等無に等しい
大きなシステムの中一つの部品が欠ければ
全体に異常を来たすであろう
それ以下の存在

消えてなくなれば変わりの存在が補充される
そしてその者もまた使い捨ての部品に過ぎない


自分があってのこの世界
所詮個々人の世界観など自分を中心に回る狭い空間でしかない
理由も無しに生きていける自信はない

せめて自分自身を表現出来る生きる理由が欲しい



【21歳 6月11日のキミへ】
生きる”意味”。それはきっと先天的なものだ。残念ながら、そんなものは存在しない。
それを突き詰めると、究極的には、個の存在が捨象された生物学的な意味に集約されるから。

対して、後天的に後付けの定義が可能な、”理由”であれば、幾らでも作り得る。
但し、捏造すらも可能な故に、それは脆く崩れやすく、拠り所にするには、少々心許ない。

ここからは、今のボクの持論。

生きる根拠を必要とするのであれば、結局のところ、最も合理的なソリューションは、外部に根拠を求める事だと思う。
誰でもいい、本当に信頼できる人間が、傍に一人でもいれば、人は救われる。
他人に期待するのとも、依存するのとも違う。
何ていうのかな?批判的であったとしても、根源的な部分ではボクという存在を肯定してくれる。
最終的には信じてくれるんだろうという安心。信頼に対する信頼?
そんなものがあれば、人間は勝手に救われる。

ちょっと、ナイーヴに過ぎるかな?

でも、多分、今のボクには、生きる理由がある。


#時に、他人の振る舞いに対して、自分とはまた違う動機付けがあったのかと疑問に思う事もある。
#悲しい気持ちと共に。