現実とは現在対面している避けることの不可能な事態,状態
現実とはその事を考える時にだけ現れ,
遅れて認識される幻想
生と死の概念の最も大きな差異
あらゆるケースを想定し生物学等の観念から捕らえらば
全く別の結論であり論点に帰結するのかもしれないが
私自身の極論では
生は自己の意思は届くはずも無いが
死は自分の意志で決定する事が出来る
普段意識的に脳からの指令で動かす事無い
"歩く"という単純なメソッド。
確実にあらゆる形で干渉してくる物理的に近い現象
自分の身体との対話をしてみる。
生物理念に叶った種々のイベントも
馬鹿馬鹿しいと感情を剥き出しに声を荒げたくなる。
当たり前の多くの事が
考えなければ気付く事も無い大きな力で制約されているのではないかと
不安交じりに真剣に考えてしまう。
最も本来は考える必要もないことであるのは間違いないであろう。
今自分が物質的境界を持ってこの世界に存在する事事態が
自分を現実に定着させている事は間違いないのだから。
然しながらある時ふと,(私の中で)未完の心理に気付き,一度捕らわれると
全ては仕組まれた夢幻ではないのかと感じずにはいられない。
何気無く歩くという動作でさえも何かがそうさせているのではないか ??
丁寧に敷き詰められたレールの上を
注意を払いながら歩む道中形成された既存概念は
その矛盾に気付いた時白くフラットに,グレーに歪み,音を立てて崩れ落ちる。
今,私の中には自身を納得させるだけの
現実と幻想の定義は何処にも無く
生きると言う人間の根底にある純粋な本能でさえ無意味に思える。
然しながら考えれば考える程
悲しい気持ちが溢れ出すのは何故であろうか。
ここで改めて問い直そう。
死は自分の意志の支配下にある。
それでは私は自分の意志で今,この世界を生きているのであろうか。
【21歳 9月8日のキミへ】
歩くという単純なメソッド。ではここで問おう。
キミはどちらの足から踏み出した?それはどれ程の歩幅だった?歩くスピードは如何程だった?体幹は意識したか?
では、この条件で歩くというメソッドを実行した理由は、何だろう?
現実を演算し最適解を導いた、とでも言うのだろうか?
結局、現実を認識する意識など、舞台の観客程度の存在でしかないのかもしれない。
そして、この客観的自覚から得られる、一歩引いた視点で、改めて問い直してみよう。
もしかしたら、生きているのではなく、多くの感謝すべきものに生かしてもらっている。
そんな風にも思えるかもしれない。
#やはり、今はまだ思えない。
#それでも、思いたいと思うこの視点の連続的維持こそが重要である。そう思いたい。
現実とはその事を考える時にだけ現れ,
遅れて認識される幻想
生と死の概念の最も大きな差異
あらゆるケースを想定し生物学等の観念から捕らえらば
全く別の結論であり論点に帰結するのかもしれないが
私自身の極論では
生は自己の意思は届くはずも無いが
死は自分の意志で決定する事が出来る
普段意識的に脳からの指令で動かす事無い
"歩く"という単純なメソッド。
確実にあらゆる形で干渉してくる物理的に近い現象
自分の身体との対話をしてみる。
生物理念に叶った種々のイベントも
馬鹿馬鹿しいと感情を剥き出しに声を荒げたくなる。
当たり前の多くの事が
考えなければ気付く事も無い大きな力で制約されているのではないかと
不安交じりに真剣に考えてしまう。
最も本来は考える必要もないことであるのは間違いないであろう。
今自分が物質的境界を持ってこの世界に存在する事事態が
自分を現実に定着させている事は間違いないのだから。
然しながらある時ふと,(私の中で)未完の心理に気付き,一度捕らわれると
全ては仕組まれた夢幻ではないのかと感じずにはいられない。
何気無く歩くという動作でさえも何かがそうさせているのではないか ??
丁寧に敷き詰められたレールの上を
注意を払いながら歩む道中形成された既存概念は
その矛盾に気付いた時白くフラットに,グレーに歪み,音を立てて崩れ落ちる。
今,私の中には自身を納得させるだけの
現実と幻想の定義は何処にも無く
生きると言う人間の根底にある純粋な本能でさえ無意味に思える。
然しながら考えれば考える程
悲しい気持ちが溢れ出すのは何故であろうか。
ここで改めて問い直そう。
死は自分の意志の支配下にある。
それでは私は自分の意志で今,この世界を生きているのであろうか。
【21歳 9月8日のキミへ】
歩くという単純なメソッド。ではここで問おう。
キミはどちらの足から踏み出した?それはどれ程の歩幅だった?歩くスピードは如何程だった?体幹は意識したか?
では、この条件で歩くというメソッドを実行した理由は、何だろう?
現実を演算し最適解を導いた、とでも言うのだろうか?
結局、現実を認識する意識など、舞台の観客程度の存在でしかないのかもしれない。
そして、この客観的自覚から得られる、一歩引いた視点で、改めて問い直してみよう。
もしかしたら、生きているのではなく、多くの感謝すべきものに生かしてもらっている。
そんな風にも思えるかもしれない。
#やはり、今はまだ思えない。
#それでも、思いたいと思うこの視点の連続的維持こそが重要である。そう思いたい。