”嫌悪”を無神経に主張する事で
自己の境界をより鮮明にし,それ自身をアイデンティティとする事で
利己的閉鎖空間に閉じこもり安堵するのか。
そして誰もいなければ溢れる光の錯乱でしかないこの世界に同化していく
所詮視神経は光の情報を伝えるだけのデバイスでしかない。
その情報と記憶化(体験)の既存情報を加味する事で
最終的な判断を下すユニットが存在する。
”好意”も略同様のアルゴリズムを辿る事であろう。
全ての行動理念に意味が無い事は無い。
人が情報を判断した時にのみ虚構にも似た”現実”が僅かに姿を現す。
主観的な感覚に欺かされながら自己の境界をより強固にしてゆく。
他人との接触 - 矛盾の受容と矛盾の逃避
判断するユニットを備えた人が存在しない限り
世界(現実)は光の束で紡ぎだされる虚構でしかない。
つまり人(判断ユニット)が存在するからこそ
現実は局所的に閉鎖的観念の元に成り立つ認識体として姿を見せ
その総合が誣いては「普遍的な現実」へとその姿を変える。
そう,何気ない日常的な現実こそ絶えず姿を変えるものであり
そして,何気無い現実以上に予測不可能で定例化出来ない物は無い。
朱色に染まった空が,葉を落とし無残な姿に変わった木々の影を不安定に消え行くように
薄っすらと伸ばすのも
突然吹いた風が私の足物に枯葉と共に切なさを運んだのも
鳥の鳴き声が寂しげな慟哭に聴こえ,世界の黄昏に心を奪われた事も。
この日常全てが私にとっては奇跡的な日常に他ならないのである。
この虚構に満ちた世界で
「人と人の心の架け橋」に成り得る物は存在するのでしょうか。
或いは
「全てが虚構で在るが為に」人は惹かれ合い補完し合うのでしょうか。
「矛盾の受容」と「矛盾の逃避」…
何故か少し寂しくも悲しい気分で虚無感に浸った。
【22歳 1月6日のキミへ】
この問いは恐らく正解。例え答えを出せなくても。
受容に限らず、逃避の場合も含め、そこにはお互いの個の存在がある。
仮初の現実であろうと、仮初の存在であろうと、確実に内在し、影響を与えている。
コスモポリタニズム/ グローバリズム、どんなに均一がが進んでも、生身の個の存在を無視した議論は無効化されると思う。
思考もまた同じ。それが仮初であっても。