これまで「流転の一葉」と「小説ぼっちゃんのモデルと言われた男」の2冊の本を上梓しましたが、この二冊を上梓する以前に、原稿を書いたまま世に出していないドキュメンタリー小説があります。本の題も「蒼天の星」と決めていましたが上梓する決断がつかないまま原稿を眠らせてきました。おそらくこの先も世に出すこと無く棺の中に持っていくなるだろうと思っています。戦争を体験した人が亡くなられる人を眼前にして、生涯戦争の事を語らなかったという事を聞きますが、その思いが良くわかる体験でした。
今から40年前の、1983年11月22日に静岡県の掛川市のレクリエーション施設で写真のようなガス爆発事故がありました。現場の建物の中には21人ほどいたと思いますが、そのうち約7割の14名の方が犠牲になるという痛ましい事故で、日本のガス爆発史上最大の犠牲者を出した事故でした。
私は爆発の際窓際に座っていて爆風で屋外に7mほど飛ばされました。痛い思いはしましたがその爆風で飛ばされたことにより、建物の中で炎につかまらずに生存することが出来たのです。
一方で犠牲になられた人々の中には、一緒に東京駅から現場まで車で一緒に行ったT部長がいましたし、事故の前日まで会社で一緒に仕事をしていた同僚の女性社員もいました。また、空の仕事は危ないと親に言われて航空会社のCAから転職した女子社員もいました。入院していたため犠牲になられた同僚の葬儀には出ることが出来ませんでした。そうしたけじめの場も与えられなかったため、今でも彼らや彼女らが亡くなられたという実感はありません。
また、事故直後は私も掛川の市民病院の個室に隔離され、ドクターの指示で新聞やテレビなど一切病室に持ち込みを禁じられたうえ、家族も口止めされていたため、事故で亡くなられた方がいたことを知ったのは容態が落ち着いた一週間後の事でした。
二枚目の写真で足の裏を見せて横たわっているのは私です。当時の写真週刊誌に撮影されました。会員制施設で一般の人は入れなかったにもかかわらず、写真撮影されていたことに驚いたことを覚えています。
戦争でも事故でも、尊い人命が犠牲にならないような配慮・注意・対応が肝要だと40年前の事故を思い出し心に念じていました。合掌。
事故を報道した当時の新聞
写真中央で毛布から足を出しているのが筆者 董事の写真週刊誌に撮影された
爆発で破壊された建屋
建屋内の様子と筆者が座っていた位置と爆風で飛ばされた位置。爆風で飛ばされたため破壊された建屋に閉じ込められずに助かった。
同じ事故に遭遇して生還した会社の先輩。その後、京都パープルサンガ、川崎フロンターレ、サガン鳥栖の監督やGMを歴任された。