1ケ月前東京の府中市美術館の学芸員のKさんと話していた際、新海覚雄の作品を所蔵していると話していた。その場は自慢話しで終わったのだが、昨日Kさんからメールがあり、同館に収蔵させてほしいと連絡があった。ひいては新海の専門の担当者を紹介するので、作品を見せてやってほしいとの内容だった。

 

その絵は、20年前にひとめぼれして、先立つものの目論見もないままに 購入した絵だった。最近になって新海の評価が再見直しされているが、当時は忘れられた画家と言っていい存在だった。

買った絵が届いた時に、妻からは「鳥の死骸の絵なの」と半ばあきれたと言わんばかりの視線を受けたのだった。ともあれ、年に2.3回は止むに止まれぬ思いを抱く絵に出会うが、この雉子の絵もまさにそれだった。

構図にも描写にも僅かな破綻もなく、その存在感と表現力には息を呑んだ。モチーフのディテールまで細かく注意を払い繊細な筆致で描いている。よく見て欲しいのは羽毛の質感だ。実際にそこに雉子の実物が存在しているかのような錯覚を覚えることだろう。写実作品だが、とはいえ写真や図鑑のような無機質な描写ではなく、鳥の存在に画家の心象を入れ込んでいて単なる写実作品とは一線を画す作品だった。宮城県立美術館に所蔵されている洲之内徹コレクションの鳥海青児が描いた「うずら」を連想するような作品だった。

この作品は、新海覚雄の遺族の新海堯氏が所蔵していたもので、平成13年に東京国立近代美術館に収蔵された新海作品も新海堯氏が所蔵品していた作品で、その意味では新海の代表作と言っても良いだろう。国立新美術館の開館記念展で「20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―」と言うテーマで、梅原龍三郎、安井曾太郎など日本を代表する洋画家の静物画と共に、新海覚雄の作品が並んで展示された。自分だけが認めていたと思う画家が世間から再評価されることは、ある意味自分が認められたような気持になり、うれしい。

新海は山形県出身の彫刻家、新海竹太郎の長男として、1904年に東京の本郷で生まれた。川端画学校で藤島武二や石井伯亭に師事して油彩画を学び、卒業後は太平洋画会、二科会、一水会などで活躍した。戦後は美術界の民主化を掲げる日本美術会に参加して、戦争に抵抗したドイツの美術家ケーテ・コルヴィッツに影響を受け、ヒューマニズムの視点から現実に生きる人々を描き、戦後のリアリズム美術運動を主導した人だった。

1950年代後半からは、宣伝ポスターの制作と並行して、原水爆を告発するリトグラフにも挑戦している。こうした作画活動を通じて、原爆の図で有名な丸木依里・丸木俊夫妻とも交友しており、1968年にはともに創作画人協会を結成したが、その結成した年に体調を崩してしまい、8月10日に志も道半ばで逝去した。享年64歳だった。新海は府中の多磨霊園に埋葬され、父の新海竹太郎と共に永眠している。

新海覚雄の画業は平成になって再評価され、その作品は、多数の美術館や博物館に所蔵されるようになった。東京国立近代美術館には1933年作の「老船長」が、板橋区立美術館には1943年の「貯蓄報国」、1954年作の「龍を持つ婦人像」、福富太郎コレクションには1964~1968年作の「真の独立を闘いとろう」、東京都現代美術館には1937年作で新海の婦人を描いた「椅子に座る女」などの作品が所蔵されている。

筆者の「雉のある生物」も、いつの日か府中の美術館に展示されるのだと思うと、自身の目を誇らしく思うのである。余談だが無償の寄贈である。