多くの方は,「輸血拒否が憲法上の権利であることを認めた最高裁判例」があると認識されていると思います。

今回,「最高裁判例解説」などという大仰な題名を付けましたが,実際に緊急輸血拒否現場に直面した1当事者として,また,弁護士として,要するに,この最高裁判例について自分が個人的に思うことを書きたいと思います。

この判例を学ぶ人たちが,その背景事情などについてより深く思いを巡らしてくださればと願います。


1 判例の位置づけ

この判例は,最高裁判所平成12年2月29日判決で,法学,特に憲法学を学ぶ人であれば絶対に学ばないことはないほどの有名な判例であると思います。エホバの証人に関連した日本の判例としてはもう一つ「学校での剣道授業拒否事件」があり,こちらも同様に非常に有名な判例であり,法律の世界では2つの判例は「金字塔」に近いレベルの扱いを受けているといって良いように感じます。
 

※なお,この判決の要旨は,「医師が、患者が宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有し、輸血を伴わないで手術を受けることができるものと期待して入院したことを知っており、右手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、ほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで右手術を施行し、患者に輸血をしたなど判示の事実関係の下においては、右医師は、患者が右手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪われたことによって被った精神的苦痛を慰謝すべく不法行為に基づく損害賠償責任を負う。」というものです。直接的には,「医師の説明義務違反」を結論付けた判決なので,その事実を知らない方が多いように思います。

 

輸血拒否についての本判例は,「自己決定権」や「インフォームドコンセント」という概念・権利を確立した判例であり,「医療選択における決定」のような重要な決定においては,本人の意思が最大限(当人の死に至ったとしても)尊重されるべきという考え方を確立し,法律世界も医学の世界も完全にこの考え方に沿って輸血拒否への対応がなされている印象があります。
 

特に,輸血拒否判例についての解説の中には「この患者は自らの確信的な信条に基づいて決定をしており,他の代替治療は受け入れる姿勢を示していたのだから自己破壊的行為とも評価できない」という論調が見られ,要するに,日本の法律の世界ではこの判例判断を攻撃したり変更する余地はほぼないレベルになっているような印象です。

 

2 医師たちの反応についての個人的感想
医学の世界では,この判例について様々な専門的論考が出されていますが,自分が直接話をした医師たちに限って言えば,「困った事態ではあるが従わざるを得ない判例であり,この判例を前提としたうえでなんとか現場で対応するしかない」という感覚が多い印象を受けます。

私は大学院生時代や弁護士になった後,この判例について複数の医師(開業医・ERで日々救急救命をしていた麻酔科医・大学医学部の学部長・大企業の産業医など)の率直な感想を聞きましたが,乱暴なざっくりした言い方をすると,まず第一に「要するに神様を信じてる人たちのいうことは否定できない」といった反応が多く,「救命を旨とする医師として忸怩たる思いがあるが,この判例がある以上は,輸血拒否の信条を最大限尊重するしかない」という感覚の医師ばかりでした。

 

また,「絶対的無輸血治療を選択する権利」は確立されているけれども,「絶対的無輸血治療を現実に受ける事を要求する権利」まで存在するわけではないので,絶対的無輸血治療を受けられないために死亡に直結するケースはいくらでもあるという「現実」を皆が共通認識で持っており,当のエホバの証人信者がそのことを理解しているのか,「最高裁判例の存在」の意味を誤解していないのか,不安を覚えます。


上述したERで救命をしていた元麻酔科医というのは,救命救急の第1線の元スペシャリストで,実はその後,医師業を離れて司法試験に合格し,司法研修所で私と同期になった友人なのですが,二人だけで飲みながらかなり話し込んだことがあり,「毎日ERにいると,一度自殺を図って運び込まれて救命され,その数日後に,救命したその同じ人がまた自殺を図って運び込まれ,また救命措置をとるけど結局次の時には死んでしまう,というケースがザラにある。現場で救命に全てを捧げている医師としては,エホバの証人の姿勢はそういう類型の人たちの1つとして,淡々と言われるとおりに対応するしかない」というようなことを述べていました。

 

世間の一般的の反応の多くも,(そうでない考えを表明する人も中にはおられますが),「個人的にはどうかとは思うけれども,神様を信じる人の世界には入りこめないし,最高裁判例もその信条を支持しているみたいだから,エホバの証人の絶対的輸血拒否については,尊重する以外,仕方がないのではないか」というものであるという印象を,少なくとも私自身は持っています。

 

3 その上で「社会」はどう考えるべきか
とはいえ,エホバの証人の輸血拒否問題は,「神様を信じている人たちだから仕方ない」というような安易な結論で片付けるべきものではないと,何となく感じる方も多いのではないかと私は信じています。


少なくとも私個人はそう思いますし,法律関係者や医学関係者だけではなく,社会学や心理学などの観点からもこのテーマを多角的に分析して,社会全体で考えてゆかなければならない問題ではないだろうかと個人的には考えます。


また,最高裁の判例は,往々にして「当該事件の個別事情を徹底的に考慮して下される事例判断」である場合が多く,1つの判例の「最終結論部分」だけが独り歩きして,他の全てのケースに一律機械的に適用されると思い込むと問題が生じることも多く,この判例はまさにそうしたケースであり,判例の判断した具体的な事情も踏み込んで理解すべきものであるように感じます。

 

荒い言い方をすれば,「最高裁判例があるから,はい,それで議論は終わり」というような,蓋を閉めるような感じでは,社会的に良くないのではないかと感じます。

 

とても長くなったので,なぜそう考えるのかの本質部分を次回以降書きます。