1 母の救命が可能な医療機関を探す作業はほとんど諦めに近い心境が伴っていました。

エホバの証人の持っているリストは役に立たず,頭に浮かぶような大病院は全件受け入れできずという状況がわかりましたし,一体そのような受け入れ可能な病院など存在するのかと,雲をつかむような思いでした。

 

開始時点で残っていた時間が最大で4時間程度で,その日は気持ちの良い快晴の日でしたが,開始時点のお昼には高く昇っていた太陽がだんだんと傾いていき,「陽が落ちてゆく」ことへの恐怖感をここまで感じたのはその日が初めてでしたし,今後もおそらくはないだろうと思います。

実際,「その日の陽が落ちれば自分が一番愛する人が死ぬ」,そのような状況に置かれることはそうそうない経験だと思います。

 

2 この間,第1病院の医療スタッフの方たちが,諦めずに受け入れ可能な病院を探し続けてくださいました。

私に対しては,「そのエホバの証人の方たちがくれるリストでも,田中さんが自分で探す病院でも何でもいいので,とにかく病院についての情報を下さい,全て当たりますから」と言ってくださいました。

医療スタッフの彼女たちはもとより普段から本当に立派な皆さんであったのだと思いますし,自分自身が諦めずに医療機関を探し続けていたことの気迫を酌んでくださってのことでもあろうと感じました。

 

同時に,(この方々はご親切に「そんなことは気にしなくてよい」と言ってくださいましたが),このようなことで病院に過大な負担をかけていることに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
さらには,大規模な外科的手術がなければ失血そのものが止まらない状況でしたから,仮に受け入れてくれる病院が見つかった場合でも,治療の際にその病院やスタッフにかける負担・限りある医療資源にかける負担・医療保険制度にかける負担・手術自体は無輸血関係なく必要だったとはいえ,その後,仮にICUに入る場合の他の患者さんの治療選択を奪うことになる可能性・その後も長期的に入院が必要となった場合のベット・医療資源使用による様々な方への負担なども考えました

もしも奇跡的に治療可能な医療機関が見つかったとしても,状況次第では,母の意向を確認の上で「治療を辞退する」ことも考慮しなければならないとも考えたりしていました。

(救命事実そのものだけでなく,「無輸血治療」による医療資源への負担は非常に重要なテーマであると考えますので,この点についてはあとからさらに後述します。)

 

3 そのような経緯を経て,午後4時頃を過ぎて,「受け入れ可能」と言ってくれる病院(以下,「第2病院」といいます。)が1つ見つかりました。

 

また,第1病院のスタッフの方から,もう少し待てば別のもう1つの病院も受け入れ可能と言ってくれるかもしれないと告げられ,2つの病院のウェブサイトを見せてもらいました。どちらも他県にある病院で,第1病院より規模が小さく,ウェブサイトの情報を見るだけでは「どちらが良いか」なんて,判断しようがない状況でした。

 

ただ,私は第2病院の紹介の中に,「内視鏡治療に注力している」と書かれていることが頭に強く残りました。

また,最初に受け入れ可能と手を挙げてくれた病院である事,救命に残された時間がほとんどないことから,行った先でどのような治療がされるのか見当もつかないまま,「第2病院」に搬送していただくことを決めました。

(振り返って考えると,この時の決断は「幸運」としか表現しようがないものであり,しかしその幸運は,実はプロの医療スタッフの方たちの不断の努力によって引き寄せられたものだったと感じます。)

 

4 すぐに救急車が用意されて,私と母が救急車に乗せていただき,1時間弱の時間をかけて救急搬送していただきました。

搬送の間に,ほとんど陽は暮れかけていて,母の手を握りながら,なんとも言えない考えがいろいろ頭の中に去来しました。

 

搬送先の第2病院について,そこでどのような治療を受けられるのか,本当に全く想像がつきませんでした。

病院の大きさと,内視鏡に力を入れていること以外には一切の情報がなかったため,自分のような素人が単純に想像するような大規模手術をする設備があることは想定できませんでした。善意と使命感からご親切に受け入れて下さるとはいえ,病院についたとて,たとえどんな病院でも救命はおそらく不可能だろうと,救急車の中で考えました。

素人判断の正直な当時の気持ちですし,同じ状況ならば誰もがそう感じたと思います。
つまり私は,「諦めかけて」いました

 

私のきょうだいや母の孫,母と仲の良い叔父叔母たちも,私だけを頼りにしていたので何とか頑張らねばと思いましたが,

「万策尽きているな,これは」と思いました。

 

この時母は,すでに意識を消失したのか,単に眠ったのか,それとも何かを考えているのか,或いは「自分の神」に祈っているのか,ずっと目を閉じて動きませんでした。私は,恐らくこのまま二度と目を覚ますことはないのだろうと思いましたし,つい最近終わったばかりの父の葬儀を思い出し,特殊な宗教信条を持つ母の葬儀はどのようにあげたらよいのだろう,などと考えていました。

(私の父は,相応の社会的実績ととてつもない人脈を持っていた人で,母の特殊な宗教信条に配慮した葬儀を行うのはかなり大変でした。エホバの証人関係者の方であれば,このことは容易に想像下さると思います。そして今度はその母の葬儀をするとなると,一体どうやる事になるだろうかと考えたりしました。つまり,完全に母の死を覚悟して救急車で運ばれてゆく状況に身を置いていました。)

 

しかし,第2病院についてすぐに,これらの私の考えは,本当に驚く仕方でことごとく覆されました。

そしてそのことが,「医療選択」や「医療選択をする際の方法」について,極めて貴重な教訓を私に残してくれました。

また,この日の夕方の出来事は,「情報がない状況で,決してあきらめてはいけない」という教訓も残してくれました。
この教訓を共有する事こそが自分の目的です。

得た教訓8:救命に携わるプロの方々の立派さ,尊さ

 

文責 弁護士田中広太郎