前回まで,重要と思える前提についてまず言及しましたが,時系列の流れに戻ります。

 

1 2019年11月18日の昼ころ,私は,他の人たちには退席していただいて,母と二人だけで話をしました。

 

その時,母は意識はまだ鮮明で,いつものような落ち着いた優しい笑顔でニコニコしていました。

 

時間があまりにも切迫していましたし,日頃からの絶対的な信頼関係を信じていた私は,母にダイレクトに,

「お母さん,なんかどうも,思っているよりもはるかに深刻な状況みたいだよ。」

「お医者さんから丁寧な説明をしてもらったし,僕に医療の知識がある程度あることも知ってるでしょ。」

「どうも,今すぐに輸血をしないと,このまま数時間で意識を失うみたいだし,最終的に輸血をして手術をしないなら,今日明日にも死んでしまう状況みたいだよ」

と,はっきり伝えました。そして,手を握りながら,

「一応聞くけど,死ぬことになったとしても,お母さんは輸血は受けないんでしょ?」と確認しました。

 

母はそれを聞いて大きく取り乱すこともなく,しかし少し動揺した笑顔を浮かべて,

「輸血は死んでも絶対に受けないよ。あんたは全部わかっているでしょ。」

と,優しくはっきり言いました。そして,

「今死ぬとしても,すぐまた次に目を覚ました時には,こないだ死んだお父さんにも会えるしね。」

「私が一番希望してることは,そこまで私たちの信仰を理解しているあんたが「真理」を受け入れてくれて,次に目が覚めたときに,お父さんと,あんたと,他の子どもたちもそこにいて,私を迎えてくれることだからね」と,少し声を詰まらせながら,しかし,確信と威厳に満ちて話をしていました。

「私の信仰と人生を必ず守ってくれるあんたがすぐに来てくれたから,意識を失った後も大安心だよ」とまで言われました。

 

2 もともとそのような結論になることをわかっていた私は,母をベットから起き上がらせて,きょうだいに持ってきてもらった母の実印を渡して,「医療上の決定についての全権限を委任する」という委任状に署名押印させ,「どちらかが死ぬとしても,お母さんの信仰だけは守るからね」と伝えました。

 

その時の私は,「どんな努力を払っても救命する手段を探して見せる」という思いをもちつつも,そうは言ってもそれは不可能であろうという絶望感,それでもなお全人格をかけて母の信仰を最後まで守ろうという思い,そうしたいろんな思いが複雑に交差していて,職業上いろんな人の人生や死を見てきた者としても,非常に重い時間でした。
目の前にいる母親があと数時間で意識を失い,その後は二度と戻ってこれないという状況にあれば,誰であったとしても,「強くあり続ける事」は容易なことではないと思います。

 

3 一緒に病院に来ていた別のきょうだいは,「お母さんがそんな決定をして,自分自身の決定とはいえ,残される私たちはどうなるの?」と言っていましたし,きょうだいの配偶者も,まるで自分の母親のように私の母を支えて愛してきてくれた立派な人でしたが,「さすがにこれは納得がいかない,この決定で大丈夫なのか」と言ってくれました。

この家族の意見もまた,本当に尊い感情に基づく,重大な意見でした。

 

しかし,それまで長年に亘って,母親の人生について考え,話をしてきた私は,家族ともよく話をしました。

⁻母は,その時点まで,40数年に亘り熱心なエホバの証人信者でした。

⁻母は,その信仰に人生のほとんどをささげ,彼女の生活・価値観・友人関係,つまり彼女の幸せと不幸せは全て「エホバの証人の世界」の中で構築されていました。

⁻この時点で母はすでに70代半ばで,仮に無理やり輸血をして延命したとて,その事により計り知れない精神的打撃を受ける事は明白でした。そのような行為をして,彼女が40数年大切にしてきたものを全て打ち砕いた上で,残った短い人生の全ての時間を,後悔と絶望,圧倒的な喪失感の中で生きさせるということは,私にはできない,と思いました。

 

このことを良く説明して,「救命可能性のある医療措置を探す事に全力を注ごう。まだ死んではいないんだから。」と励まして,母の死の可能性を含め,家族みんなで状況を受け入れることになりました。

 

4 第1病院の担当医師は,母の信仰に全面的な理解を示し,このことは非常に驚きでした。

もともと明らかだった母の意思を,私が改めて医師に伝えたところ,「ご年齢とこの先の人生への影響を考えると,それが一番の選択ではないでしょうか」という回答が来ましたし,その回答は冷たいものではなく,優しい深い理解に基づくものであるという印象を受けました。

(この,「医師の輸血拒否に対する反応・考え」については,後に詳述したいと思っています。)

 

他方で,看護師さん,特にベテランの看護師長さんは,「信仰ゆえに,簡単に救命できる命を捨てる」ことについて憤りを隠しきれない様子でしたし,私自身の本心を丁寧に伝えることで,彼女たちも納得してくれた,という状況でした。

 

母の死を覚悟するという意味では,今日にも亡くなるかもしれないという高い可能性を考えて,母と親しい親族に連絡して病院に来てもらいましたし,病院との話し合いでは,「死亡診断書」の準備や,私からのお願いで,死因につき「輸血拒否による失血死」と記載してもらう準備までしていました。

そこまで緊迫し,そして希望が極めて薄い状況におかれていました。

 

得た教訓5;

①輸血拒否についての判断の際には,「本人の人格権行使」を尊重すべきだが,その際には患者の年齢・それまでの人生・救命後のその後の人生を踏まえたうえでの深い考慮が必要ではないか,ということ
②緊急事態では,そんなことをその場で考える時間も精神的余裕も全くないので,家族にエホバの証人がいるなら,「事前に」理解を深めあうのが望ましい