君が代起立斉唱命令合憲判決について その1 | 憲法の流儀~実学としての憲法解釈論~

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君が代起立命令合憲判決が2つ立て続けに出ました。
1つは,最判平23・5・30(判決1),もう1つは,最判平23・6・6(判決2)です。
様々な意見や分析が飛び交っていますが、とりいそぎ私の見解を述べておこうと思います。

なお、新司法試験との関係では、この記事の3と4のみを読めば十分です。

1 事実の概要

判決1は,都立高等学校の教諭であったXが,卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったところ,その後,定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員及び常時勤務を要する職又は短時間勤務の職の採用選考において,都教委から,上記不起立行為が職務命令違反等に当たることを理由に不合格とされたため,上記職務命令は憲法19条に違反し,Xを不合格としたことは違法であるなどと主張して,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償等を求めている事案です。

なお,判決2も同様の事案です。

2 最高裁の判断(判決1)

(1) 保護範囲

Xの「卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について」の考え方は,「「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。」

(2) 制限

ア 職務命令の性質の点
①本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実である
②学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである
したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえない。
よって,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。

イ 外部からの認識という点
また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。


ウ 行為の性質の点
もっとも,上記の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。

そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。
そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

(3) あてはめ

たしかに
本件職務命令に係る起立斉唱行為は,Xにとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。
この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものと
いうことができる。

しかし
①学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要である。
②住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にある。

したがって,
本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含
め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るも
のであるということができる。
以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。

(4) 結論

以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を
侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。

3 ピアノ判決との違い

朝日新聞には、ピアノ判決が思想良心の自由を制限しないとしていたのに対し、起立命令判決は間接的規制を認めた点で進歩した、という教育法学者の意見が掲載されていました。

しかし、残念ながらこの分析は甘いと言わざるを得ません。
そもそも,本判決は、ピアノ判決を引用していません。
また、伴奏行為は、君が代斉唱にほぼ必然的に付属する行為であること、歌詞を伴わない機械的行為であることから、思想良心の表明であるということは困難です。
これに対し、起立斉唱は、一般的客観的に、少なくとも敬意を表す行為といえます。
そうすると、制約か否かについて、ピアノ判決から進歩したのではなく、単なる事案の違いにすぎません。


4 違憲審査の手法

さて、本判決の分析の目玉となるであろう、違憲審査の手法について分析きましょう。

まず、本件は直接的には「職務命令」の合憲性が問題とされています。
職務命令は、要件効果の定まらない行政処分であるため、行政裁量が働く領域です。
そうすると、違憲審査の観点は、裁量型にシフトしてしまうとも思えます。
下級審には、判断過程審査を採用したものがあるのも、そのあらわれです。

しかし、本判決は裁量型ではありません。
なぜなら、本件職務命令の問題点は、裁量の行使ではなく、それが寄って立つ通達そのものにあるからです。
そこで、本判決を注意深く読むと、単なる職務命令ではなく、「通達を踏まえた職務命令」について合憲性を審査しています。
このように、違憲判断の対象と違憲の問題点との間には、ズレがあるのです。
それゆえ、処分違憲には目的手段審査は使えない、という定式化は危険です。
違憲審査の手法は、違憲の問題点がどこか、という観点から決まるべきものです。

次に,本判決は,いわゆる「間接的規制」であるというロジックから,審査密度を総合衡量まで低下させています。
本判決の引用している判決は,謝罪広告事件,猿払事件,個別訪問事件2つです。
これらのうち,猿払事件と個別訪問事件は,ともに間接的規制であることを理由に,いわゆる猿払基準を立てていました。
君が代ピアノ判決も,本判決と同じ4つの判例を引用しています。しかし,ピアノ判決は「不合理ではない」という審査をしている点で,猿払基準ではありません。
また,本判決は総合衡量であり,ピアノ判決基準でも猿払基準でもありません。
そうすると,これらの判決は,「間接的規制の場合は,とりあえず審査密度は下がります」という点でのみ,共通するものであるといえます。
その上で,猿払基準→本判決→ピアノ判決の順に,審査密度は低くなる考えることもできるでしょう。

5 本判決の問題点

では、本判決は何ら問題がないのでしょうか。
憲法学の立場からすれば、結論が不当であるとして様々な非難がなされるかもしれません。
しかし、私は、「思想良心の自由との関係では」、結論は不当ではないと考えています。
教師の個人的感情の類を思想良心の自由として保護し、職務命令に従わないことを正当化することは、教育制度の崩壊を招くでしょう。
仮に、君が代斉唱拒否を認めるとすれば、他の信条に基づく行為をどこまで思想良心の自由として保護すべきかという問題が生じかねません。

思想良心の自由との関係で非難すべきは、その判断枠組みです。
すなわち、本判決は、違憲審査基準を定立せず、間接的規制ゆえ総合衡量という一般論を展開しています。
その上で、本来は審査密度を下げるための理由とすべき、全体の奉仕者論をあてはめレベルで使っています。
これでは、一般人に対する起立命令も、同様の総合衡量でなされてしまうおそれが-理論的にはーあります。

やはり、全体の奉仕者論は、審査密度決定の前で論じるべきであり、一般論の不当な拡大を防止するべきであったといえます。



結論に関しては,様々な議論がなされていますので,司法試験との関係で注目すべき話題ですね。




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