就活生の皆さんは、何のために就職するのですか、誰のようになりたいですか、そんなことより志望する会社にまずは入りたいですよね。取り敢えずは、それで良しとしましょう。
しかし、私達(=カミナリオヤジ)の世代からみると、最近の日本の風潮は、「カネ、カネ、カネ」と何事につけても「カネ」が先に来てしまって、「そんなんじゃないんだけれど・・・」と何か納得し得ないものがあるんです。

そこで、「カネ儲けとカネ遣い」は、どちらが難しいか、つまり、どちらが実力がつくかを考えてみましょう。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言います。貧乏を嘆いていないで一所懸命働け、という訓えです。普通の人はいくら働いても巨万の富を築けないので、ビジネスで成功して資産をつくった人は一目置かれるのでしょう。
しかし、その金を使いこなすことが人間的魅力につながらなければ面白くありません。

就活生や若者が、年収○○円稼ぐことを目標にすることはいいのですが、金を稼ぐことも使うことも難しいのですぞ!

ビジネスに成功し誰もが認める金持ちは、アメリカではビルゲイツ、日本では松下幸之助です。この両名とも個人的に贅沢をしているという噂がありません。巨額の資産を形成しましたが、その多くを社会貢献のために費やしているからです。
しかし金使いと金儲けがそのようなものであっても良いのだろうか、というのがここでの問題です。

「社会貢献という一般の人々が最大公約数的に認めるカネ使いで自らを満足させるということは、最大公約数が羨むカネ使いに満足する成金と、実は同じことなのではないか?それは究極の思い上がりで、究極の贅沢なのではないか?」(藤原敬之・カネ遣いという教養・新潮新書31頁)といわれてしまうと、金を儲けるのも難しいが、遣うことはもっと難しい、と考えざるを得ません。

どうするのが良いのでしょうか?
人は金がたまれば溜まったで、金の力にひきずられます。金がなければないで卑屈になりがちです。
現代の日本人も昔の日本人もカネ遣いが難しいことには変わりがありません。妙に遠慮したり、親切ごかしを見せつけたりせずに、すっーすーと金銭のやりとりが出来るような人達が人間的魅力に富み、人間的実力があると言わざるを得ません。

モデルを上げるとすれば、それは、小説上の人物です。さしずめ池波正太郎描くところの剣客商売に出て来る、例えば、秋山小兵衛と金時婆さんのような人でしょう(池波正太郎・深川十万坪・新潮文庫「剣客商売・陽炎の男」所収)。
生身の人間は煩悩が多いので、秋山小兵衛先生の金使いや稼ぎ方の様には中々行きませんが、お手本とすることは出来ます。
若い時分から、カネ遣い、を意識することです。