こんにちは。新海監督の「すずめの戸締り」の続きです。まだ、みられていない方は、「ネタばれ」になりますので、読みませんように・・✨✨

 

すずめは、「お茶の水駅」で、中古のオープンカーに乗った芹澤に、声をかけられます。芹澤も、また、草太を探すために、すずめと同行することになりました。

そこへ、すずめを心配してやってきた環も現れます。すずめが、芹澤と乗り込むのをみて、環も、車に入り込みます。ダイジンまで、後部座席に乗ったので、呆れながらも、芹澤は、発進します。車で、片道7時間以上かかる行程に、芹澤は、スマホで、「ルージュの伝言」などの懐メロをかけました。

後部座席で、すずめが眠っている間に、環は、芹澤のことを聞きました。

教員志望の大学生だということがわかり、環も、芹澤に、すずめの叔母だということを話しました。東日本大震災の孤児で、12年前に4才のすずめを引き取ったと話します。それは、震災の後のこと、母親を捜し歩くすずめをみつけた環は、雪のちらつく中、抱きしめて、「うちの子になろう」と言います。

地震の気配を感じたすずめは、目を覚まします。今度は、環が助手席で熟睡します。車の中では、「スィートメモリーズ」が、流れています。

緊急地震速報が鳴ったので、車を止めて、すずめは、ミミズをさがしましたが、みつかりません。芹澤が、「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と、福島の風景をみて、すずめは、「ここが綺麗・・?」と聞き返しました。その反応をみた、芹澤は、「闇の深い一家だよな」と苦笑いします。

車の中で、「夢の中へ」を流します。次の「道の駅」で、食事をとり、気仙沼で休憩をします。

すずめは、食欲が湧かずに、車内に残り、芹澤と環が食事をします。

そして、環は、すずめをずっと理由がわからずにいて、心配をしていたので、すずめに、説明を求めます。すずめは、話しません。

環の愛情が、「私には、重い」と、すずめがつっぱねると、環が怒りはじめます。10年も、すずめに、尽くして、結婚もできなかったと話し、姉の保険金をもらっても、割りが合わないと口走ります。すずめも、環に「いたくて、一緒にいたんじゃない」と言い、環も「私の人生を返してよ」と叫びます。その環の様子に、すずめは、環ではないと感じます。「あなたは、誰?」と問いかけると、環が倒れました。そして、「黒い大きな猫・サダイジン」が、あらわれます。

気絶から、目覚めた環は、芹澤のところへ行き、泣き出します。その対応に、困った芹沢は、「ふけー、闇」とつぶやきます。

 

すずめは、映画で、「お茶の水駅」の「聖橋(ひじりばし)」に立ち、ミミズをみていました。ミミズが、出てきたのは、お茶の水と秋葉原のトンネルです。そして、後ろ度は、「牛ケ淵」というところにあります。ここは、「皇居」のすぐそばにあり、今は、「北の丸公園」です。

このお茶の水から、「皇居」の辺りは、エネルギーの強く流れる場所です。「富士山」から流れる「「富士龍脈」(レイライン)であり、「富士山」から、高尾山、新宿、四ツ谷、皇居、お茶ノ水、を通る強力な「龍脈」であり、強いエネルギーが、流れ込んでくる重要な場所なのです。

「天孫降臨」から、日本の地上に降りてきて、「天皇」という形になった最初の方が、神武天皇。その神武天皇は、「大和の大調和」を拡げるために「天皇制」をつくりました。「日本の大調和」。「日本の大調和」とは、「ワンネス(和合)」の意識、「中庸」の意識、「中今」の意識ですが、それらは、「闇」と「光」が、「統合」されていて、バランスが良い状態の、「ニュートラルな意識」というところです。つまり、「闇」も知り、「光」も知り、そのどちらも知っていて、「統御」していくことができ、そのどちらをも司る「役割」を持っているのが、日本の「天皇家」でもあります。ですから、「天皇家」は、「日本(大和)」をお護りし、「大和の民」の「大調和」を、「幸せ」をいつでも、「お祈り」することで、「天」と繋がり、お護りし、「世界」のなかでも、「大調和」を拡げてゆく、重要な「役割」をになっているのです。

そして、「大和の民」の私達も、「本来の姿」の「神人」となり、日本の「大調和」のエネルギーを、世界に、地球に、拡げていく重要な「役割」を持っているのです。

 

すずめと環が、「過去」についての話をして、とうとう「喧嘩」になるのですが、車の中では、まるで、2人の「過去の回帰」を象徴しているかのように、「懐かしい古い曲」が、続けて、流れています。

すずめは、環に「本音」を話します。「愛情が重い」と。これは、今までの、3次元社会が、「条件つきの愛」しか知らなかったためです。そして、「分離の意識」で、「体験」をしているので、どうしても、自分自身の、「心の闇」の「反映」の「現実」をみた時に、「~のせいで結婚できなかった」、「子育ても割りに合わない」、「私の人生を返して」と、つい「外側の誰か」を責めたくなったり、誰かのせいにしたくなったりしますが、本当は、全て、自分自身が「体験」したくて、「選択」してきた「現実」です。ですが、この「心の闇」の部分は、「シャドー」の自分自身であり、「シャドー」の自分は、「本来のその人自身」ではありません。すずめは、そのところを見抜いて、「あなたは誰・・?」と問いかけるのです。そして、「黒い大きな猫・サダイジン」があらわれるのです。サダイジンは、「光」も「闇」も、司る大神様なのです。

 

「喧嘩をやめて」を、車でかけながら、再び、車を走らせます。車中には、サダイジンまで加わり、猫が、自発的についてきている様子を芹澤が指摘すると、猫が、しゃべったので、芹澤は、動転し、運転ミスしてしまいます。

目的地まで、後20キロと知ったすずめは、走っていくと言いだします。

環は、乗り捨てられていた自転車を見つけて、芹澤に礼をいうと、すずめを追っていきました。

環は、前かごに猫2匹を入れ、すずめを自転車の後ろに乗せて、走ります。

環は、説明を求めるのをやめて、「もう、いいわ。要するに、あんた、好きな人のところに行きたいんやろ。」と言います。猫のことを聞かれたので、すずめは、「神様」と答えます。自転車を漕ぎながら、環は、駐車場で、すずめにぶつけた言葉は、事実だけれど、それだけではないと言います。すずめも自分も同じだと答えました。2人は、すずめの住んでいた家へ辿り着きます。

自宅のあった場所は、基礎の土台しか残っていませんでした。すずめは、庭の土を掘って、「すずめのだいじ」という缶を掘り出します。絵日記をみていると、3月11日のページは、全て黒く塗りつぶされていて、すずめは、大地震に襲われて、大津波警報が発令されているなか、母親を捜していたことを思い出します。

黒塗りのページの先に、草原で女性と出会った少女の絵が描かれていました。

それをみて、すずめは、「夢じゃなかった。電波塔に月がかかっていて。」と思いだします。12年前のガレキは、もう残っていないと環が話していると、ダイジンが、扉の場所をひっかいて、教えました。それをみたすずめは、ダイジンが、後ろ戸を開けてまわっていたのではなく、開いた場所をダイジンが、案内してくれていたのだと、気づきました。「ありがとう」と声をかけると、ダイジンが元気になって、「行こう。すずめ」と声をかけます。

すずめは、環に、「私、行ってくる。好きな人のところへ。」と言って、ダイジン、サダイジンと共に、後ろ戸の扉の向こう側に、足を踏み入れます。環が、それをみて、祈ります。「おねえさん、すずめを守って」。

扉の先の「常世」では、地面が燃えていました。そして、巨大なミミズが、暴れていました。サダイジンは、巨大化すると、ミミズに覆いかぶさって、戦い始めます。

すずめは、椅子の草太をみつけると、抜こうとします。冷気を感じながら、「私、こんなところまで来たんだよ。答えてよ。」と必死に草太に呼びかけます。

草太は、「君に会えたのに。」、「生きたい。もっと。」と言い、「私だって」と声をかけます。すずめは、「起きて。目を覚まして。」と言い、冷たいそのイスに、キスをします。波打ち際の扉の前に座っていた草太は、凍りから、解き放たれ、すずめの体温を感じ、その手に触れて、扉をくぐることができました。すずめは、要石から、草太を解放しました。

「ダイジンはね、すずめの子にはなれなかった。すずめの手で元に戻して。」と、ダイジンが言って、元の石の姿に戻りました。

燃えていた土地が、震災前の景色に戻ります。住民たちが、みんな「いってらっしゃい」、「いってきます」とあいさつをしあっていました。

 

草太の友達の芹澤は、いつもベストなタイミングで、すずめに出会ったり、車で、まるで、全ての状況がわかっているかのように、古い音楽を流したり、そして、実際に助けてくれる「協力者」です。

そして、「現実世界」の「経験」も豊富なので、「みえない世界」のことも、理解してくれるような、してくれないような、そして、人間の「深い闇」も知っているような、知らないような、「ある」と「ない」の世界の、どちらとも、かかわりがあるような、ないような、全て知っているような、知らないような・・どちらの世界も行き来できる人物です。だからこそ、すずめや草太の「世界」の、「協力者」が、自然にできてしまう人物なのです。そして、人間的に、「幅が広い」人物なのです。

そして、すずめや草太のように、神々様と動いていく時には、このような「協力者」が、必ずいてくれるのです。神々様の「視点」からいうと、とっても、よく「協力者」として、動いてくれる、また、「大切な役割」を持つ人物なのです。芹澤が果たす役目は、大きいのです。すずめや環の「深い闇」を持っていることへの理解もあります。

そして、自転車に乗りながら、環は、すずめと、「本音」を語り、本当のコミュニケーションをとってゆくのです。私達は、今まで、「本音」を、全て見せ合う人間関係ではありませんでした。また、「本音」を見せ合う関係は、「限られた人」であったかもしれません。こちらの友人とは、「本音」が話せるのに、近しい家族だと「本音」も、いえなかったりします。状況により、また、人によって、「本音」を言ったり、言わなかったり、してきましたね。本当は、全ての人間関係で、「本音」を話してゆくことが、本当のコミュニケーションにもつながっていくことなので、何よりも大切です。そして、それは、「自分自身にも、嘘をつかない」ことにもなり、「本当の自分」で生きることにも、繋がることなので、本当は、一番、大切なところなのです。そして、「自己犠牲」しないというところにも、繋がるのです。新しい時代の、人間関係は、「嘘」、「偽り」のない関係なのです。ですから、本当に「たましいで繋がる」人間関係で繋がれてゆくのです。それは、私達自身が、今まで、つけていた「偽りの仮面」を脱ぎ捨てていくからです。私達は、「ありのままの自分」に戻り、生きていくのです。ですから、私達は、全員、「適材適所」につくようになり、パズルのピースが、全て、収まるように、はまっていくことになるのです。ですから、「調和」の取れた、「本当の繋がり」を持つ人間関係ができあがってゆくのです。

 

 すずめは、自分の家の庭から、「すずめのだいじ」という缶を掘り出し、絵日記をみます。黒塗りのページの先に、「女性と出会った少女の絵」が、描かれていて、すずめは、夢ではなかったことを思い出します。

人生のなかで、「みえない世界」が存在する「体験」をすると、私達は、「夢」ではないかと思ったりします。例えば、人生の前半で「みえない世界」を「体験」したことが、人生の後半で、繋がってきて、過去の記憶が突然、呼び覚まされ、思いだし、「目の前の自分自身の人生」で、点と点で繋がれていくのをみたりすると、「あれは、全て、現実の話だったのだ」と理解する瞬間があります。それは、すずめのように、自分自身だけが、感じて、わかることなのです。そして、この時の、すずめのように、ここに気づいた瞬間、「みえない世界」と「みえる世界」が、同時に「存在」していて、その2つがあって、「ひとつの世界」なのだと理解するのです。そして、すずめは、草太と同じ「ひとつの世界」をみて、彼と動いているということです。ですから、お互いに「ひとつの世界」がみえている2人は、お互いが「自分自身のような」、パートナーだからです。お互いの「みえている世界」を理解しあえるのは、お互いしかいないのです。「草太を愛すること」は、「すずめ自身を愛する」ことであり、草太を「救う」のも、「すずめ自身を救う」ことなのです。本当の意味で、「救済」できるのは、誰でもなく、「自分自身」でしかないということです。

 

ダイジンが、扉の場所をひっかいて、すずめにおしえました。それをみて、すずめは、気づくのです!ダイジンが、後ろ戸を開けていたのではなく、開いた場所を案内してくれていたのだと。これは、すずめ自身に「気づき」があったことで、ダイジンの「本当の姿」が、みえてきたのです。一見、「そうは思えない」という、「ネガ」な出来事や、「ネガ」な人に、私達は、出あったりしますが、その「出来事」や「人」の「奥底には、何があるのだろう・・、何を問いかけているのだろう・・」と、みつめていると、「気づき」で、自分自身の「視点」が、あがった時に、「物事の本質の姿(本当の姿)」がわかり、「本当の相手自身の姿」が、わかってきます。

ダイジンの、「本当の姿」が、みえたすずめは、「ありがとう」と、ダイジンに言います。ダイジンに、それは、伝わります。そして、ダイジンも、すずめの「愛」からの「理解」を感じて、元気になって、「行こう。すずめ」と言います。本当の「愛の言葉」は、相手にも伝わるのです。そして、その「愛」を受け取った相手は、元気になります。本当の「愛」を感じたら、私達は、本当の意味で、癒され、元気になってゆくのです。本当の「愛」は、人や動物、万物の生き物をも、「健康」にするのです。

そして、すずめは、後ろ戸の「常世」に、足を踏み入れます。お姉さんも、すずめへの「愛」の思いで、祈ります。

「常世」では、地面が燃えていて、ミミズが暴れています。ダイジンも戦い始めます。すずめは、イスの草太に、必死で呼びかけながら、イスを抜こうとします。草太は、すずめを感じ、「君に会えたのに」、「もっと生きたい」と、草太は、すずめへの「本当の気持ち」に気づきます。そして、すずめも同じ気持ちでいることを認め、「起きて。目を覚まして。」と、イスにキスをします。

 

私達は、「本音」を隠して、「自己犠牲」で、生きてきたのです。自分の奥底の気持ちに、「自分の身体」が、本当に、危なくなってしまうまで、「奥底に眠る本当の気持ち」に、蓋をして、偽り、「自己犠牲」してきたのです。

「もう一人の自分自身」であるすずめに、草太は、「起きて。目を覚まして。」と起こされたのです。「目を覚ます。起こされる。」ということは、「自分自身を生きる」ことのはじまりです。この時、ようやく、「自己犠牲」が終わるのです。「自分自身を生きる」ことは、「偽り」を脱ぎ捨て、「自分自身に正直に」に生きるということだからです。すずめの「キス」は、「愛」のキスです。そして、すずめは、小さい頃に、1回、草太に会っていたのです。この「みえない世界」で。

すずめは、その時から、ずっと、草太を好きで、愛していたのです。「小さな女の子が、小さな男の子にキスをするように」、すずめは、小さなイスの姿をした草太に、キスをするのです。これは、「真実の愛」からのキスです。「おとぎの物語」で、「王子」が、「王女」にキスをして、王女が目覚めるのと同じです。「おとぎの物語」は、「真実」をあらわしています。「自分自身」が、「愛」を失っているように感じていたとしても、自分の奥底に眠る「本当のあなた自身」は、決して、「あなた自身」を忘れてはいないのです。そして、「奥底には、自分自身への愛」があるからこそ、「もう一人の自分自身」が、決して、あなた自身のことを忘れずに、深い「愛」を持ち、あなた自身を起こしにきてくれるのです。目覚めるように、キスをしてくれるのです。

凍りかけていた草太は、すずめのあたたかな「体温」を感じ、解放されました。そして、自己犠牲の「要石」からも、解放しました。本当の意味で、すずめは、草太を救い、ダイジンの「やりたくない役割をやる」という、「要石」自身の意識も、すずめの「愛」により、救われました。そして、これまでの、自己犠牲する「閉じ師」の「歴史」も、終わらせ、「解放」したのです。すずめのように、本当の「自分自身を生きる」ということは、周囲に本当の「愛」をもたらせます。そして、結果的に、周囲の方も、すずめの「愛」を受け取り、ダイジンのように癒され、「結果的」に、本当の意味で、「救う」こともできるのです。「ありのままの自分で生きる」、「本当の自分自身で生きる」というのは、とても、大きな、本来の「愛」で包み込むので、癒されてしまうのです。ですから、「癒そう、救おう」という、分離の「意識」からの「救い」や「癒し」は、いらないのです。

ダイジンも、すずめの「愛」で、「すずめの子にはなれなかった。すずめの手で元に戻して」と、今度は、ダイジン自身が、その「現実」を、自分から受け容れ、「要石」へとかえってゆくのです。これで、ダイジンも、「本来の要石の役割」に、戻れたのです。元の姿と「変わらない姿」にみえますが、もうダイジンは、あの、すずめに会った時のダイジンとは、違うのです。すずめの、「本当の愛」を知り、「歪んでいた」ところを、真っすぐに、「本来の位置」に戻ったのです。

そして、大きな「愛」の「存在」でいれるようになると、自分自身の「能力」、「才能」も、最大限に発揮できるようになるのです。

 

そして、すずめと草太は、「要石」を持ち、本当の意味で、2人の「力」を、発揮できる「本来の仕事」が、できるようになるのです。

 

その2人の「本来の仕事」の様子は、また、次回で・・。次は、いよいよ、最終回です!✨✨2人でやっていく「仕事」の様子が、楽しみですねっ!お楽しみに・・✨✨

 

   『すずめの戸締まり』感想レビュー|鈴芽の"アクション"について、「戸締まり」とは?、僕らはこれからどう生きる? | アニメイトタイムズ

            ✨✨「ふたりの愛」✨✨

 

   #すずめの戸締まり 草太さんLOG - Drawingのイラスト - pixiv

 

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