こんにちは!新海監督の「すずめの戸締り」です。「ネタばれ」になりますので、まだ、みられていない方は、読みませんように・・✨✨

 

凍りかける夢をみた草太は、すずめに起こされます。すずめは、キスをして、椅子の草太を起こそうとしていました。すずめは、SNSで、ダイジンの目撃情報があったことを、草太に伝え、ダイジンは、東京の浅草にいたので、2人は東京へ向かいます。

「新神戸駅」まで、ルミが送ってくれます。すずめが、新幹線で、スマホをチェックすると、心配した環から、55件もの着信やコメントがあり、すずめは、慌てます。

 

「凍りかける夢」をみていた草太に、すずめは、何かを感じたのか、「キス」をして起こそうとします。すずめは、草太を愛しています。「愛して」いるから、草太のことを、「感覚」で感じとるのです。はじめは、「キスをしたら、起きる?」という素朴な「思い」でしたが、すずめは、「凍りかける夢」をみている草太に、「何か」を感じるのです。そして、本気で、「キスをして」起こそうとします。草太に「愛」を感じているので、すずめの「感覚」に、そのようなほんの少しの「変化」も、何か「異変」までは、感じなくとも、起きない草太に対して、どうすれば良いのかが、「感覚的」にわかるのです。「愛」は「祈り」です。その「愛」が、「真実」であれば、私達は、いろんなことが起こったとしても、心からの、「真実の行動」ができていゆくのです。それは、思考の「こうすればよい」、「こうするべきだ」などとは、違うものです。もっと「感覚的」に、私達の「たましい」が、知っていることなのです。

一方、環のように、「心配する」という「愛」もあります。これは、「条件付きの愛」です。「あなたに、私への愛があるなら、私に心配させないでね」という、「条件」をつける「愛」なのです。この「条件つきの愛」を感じ取ると、相手から、嫌がられる場合があります。それは、「愛」に条件をつけているから。それは、最終的には、「コントロール」の「愛」に繋がるからなのです。でも、この「条件つきの愛」が、「悪い」わけでも、「良い」わけでもありません。「宇宙」は、私達の「体験」させたいことを、「体験」させてくれるのです。「条件付きの愛」の「体験」があるから、「真実の愛」も、理解できるようになるのです。ですから、どちらの「愛」を「体験」することにも、「ジャッジ」は、要らないのです。私達には、「必要な事」しか起こらないのです。

 

東京駅に着くと、草太は、道案内し、すずめを、自分のアパートに連れてゆきます。

鍵を開けて、部屋に入り、本棚の上の段ボールを取って開くと、「古文書」がありました。「ミミズ」と「要石」に関することが、書かれている資料です。

「ミミズ」は、いつの時代も「土の中」から、出ようとしており、草太たち「閉じ師」が、ずっと、「要石」で、守ってきました。「要石」は、東と西の2つあり、時代によって、場所が変わっていました。現在、資料によると東京にありますが、詳しい場所はわからないけれど、ダイジンがそこを開けようとしているのではないかと、草太は話します。

 

「日本列島」の下には、「大きなエネルギー」があり、その「大きなエネルギー」が、「地震」を引き起こしたりします。その「大きなエネルギー」が、暴れて、地震などの災害を引き起こさないように、「日本」には、「鎮め石」という「霊石」が、あるのです。これが、「要石」です。この「霊石」は、地上部分は、ほんの一部で、地中深くまで伸びて、地震を引き起こす「大きなエネルギー」(「鯰(なまず)と言われたり、「龍」と言われたりします)を押さえているのです。日本の神々様で、「建御雷神(タケミカズチノオ)」と呼ばれる神様が、「布都御魂(フツミタマノツルギ)」は、「霊剣」ですが、この「剣」で、地中深くまで貫き、押さえているとも言われています。

 

草太の部屋に、草太の友人の「芹沢 朋也(せりざわ ともや)」が訪ねてきます。芹沢は、草太が、「教員採用の二次試験」に来なかったので、心配して訪ねてきたのです。

そんな時、「緊急地震速報」が、鳴りました。すずめが、部屋の外に飛び出し、周囲をみると、近くで「ミミズ」が、でていました。すずめと草太は、芹沢を置いて、「ミミズ」が、みえている方向に向かいます。東京の街を小刻みに、大きな揺れが襲っていました。ひときわ大きく揺れると、草太が、「二つ目の要石が抜けた」と言います。それと同時に「ミミズ」の全身がでてきて、草太は、「ミミズ」に飛びついて上昇し、すずめも、ジャンプしてついてゆきます。

「ミミズ」から、落ちそうになったすずめを、草太は助けます。

「ミミズ」は、東京の上空に上がると、大きく、大きく、広がって、街を覆い始めました。「ミミズ」が、空から落ちると、東京を大地震が襲うのです。

ダイジンも、「ミミズ」の上にいて、「たくさんの人が死ぬ」と教えます。草太は、すずめに、自分に「要石」の役目が移っていたと話しました。「椅子の姿」の自分を、「ミミズに刺せ」と言いながら、草太は、凍り始めます。

すずめは、嫌がりながらも、ほかに道はないので、「椅子の姿」の草太を「ミミズ」に刺しました。それにより、「ミミズ」は、光って消えました。落下するすずめは、気絶し、それを姿を大きくしたダイジンが、守ろうと包みます。すすめを包んだダイジンは、「皇居」のお堀に落ちました。

すずめは、「夢」をみていました。幼い頃、庭で、木を切って、組み合わせて、「自分用の小さな椅子」を創ってくれました。感激したすずめは、「一生、大事にする」、母に言うのです。

 

東京の上空に、大きく広がる「ミミズ」。「大地震」、「大災害」、「たくさんの人が死ぬ」。このもくもくとした、巨大な大きな黒い「雲」のような、「ミミズ」。これを、目撃すると、誰もが、その「大きな黒い雲」に、巻き込まれていってしまいそうになります。そして、すぐ「恐怖」に飲み込まれていきます。

時代が、「新しい時代」に移り変わる今、この時に、私達は、「真実」を知る時を迎えています。

私達は、長い間、「分離」の「意識」を使い、「体験」してきました。「分離の意識」とは、「良い」、「悪い」、「正しい」、「間違っている」、「光」、「闇」などの2極の意識です。そのため、私達は、いつでも、何かが起こると、「幸せの後には、不幸が・・」、「ポジティブは、良きもの」、「私は、正しいんだ」、「ネガティブは悪いこと」、「死ぬのは、悪いこと」など、いつも、2極の「分離の意識」から、このように、「ジャッジ」してしまうのです。

この「2極の分離の意識」を使ってみていると、物事の奥に隠されている「真実」を見抜けないのです。どちらかに、大幅にかたよった「捉え方」をしてしまうからです。「出来事」は、いつでも、「中立」です。その「出来事」をみて、「良いこと」、「悪いこと」と、勝手に、簡単に、私達は、「2極の意識」を使い、捉えてしまうのです。

「光」と「闇」は、「対極」にある「同じもの」です。「光」は、「闇」であり、「闇」は、「光」なのです。つまり、「同じ土俵」の上にある「同質」なものなのです。

私達の「意識」は、ここを見抜いてゆく「必要」があるのです。「闇」を「ネガティブ」だと捉え、「闇」を嫌うことは、かたよった「捉え方」になり、「光だけが、良いもの」という捉え方も同じです。「自然」には、「光」も「闇」も、「必要」なのです。このバランスが崩れると、どちらかにかたより、「苦しみ」になるのです。

「神様の世界」には、必ず、「悪神様」と「良い神様」が、登場します。「日本のお祭り」でも、「悪神」と「良い神」は、セットで、「象徴」として、登場しますね。

私達の、「自然な進化」には、この「闇」と「光」が、両方とも「必要」なことなのです。ですから、私達は、長い間、この「地球」で、「分離」の「ネガティブ」を「体験」してきたのです。そして、今、この「新しき時代」に入るということは、ここを、見抜いて、超えていくことが「必要」なのです。

そのため、この「すずめの戸締り」の映画は、初めから、最後まで、「ダイジンは、サダイジンは、いったい、良い猫なの?悪い猫なの?すずめの味方なの?敵なの?」という風に、「象徴的」に描かれています。そして、ここの部分が、この映画の「最も、重要な部分」なのです。

「大地震」、「災害」、「たくさんの人の死」も同じです。私達は、今、この時、「神の目(心眼)」で、物事を捉えていく必要があるのです。それは、決して、「大災害」を、「たくさんの人の死」を、「肯定」するものではありません。

私達は、「意識が全て」なのであり、どこにその「意識」を向けるのかが、最も、「重要」だからです。「大災害は悪いもの、怖いもの」、「たくさんの人の死は、怖いこと、悪いもの」。確かに、その通りです。私達の「願い」として、このような出来事は、誰もが望みません。でも、「望まない」からこそ、ここを超えていくのが、見抜いてゆくことが大切なのです。

この「2極の意識」に、私達の「感情」がともなうと、どちらかの方向に「同調」することになります。「意識」は、「同調」させると、「拡大」するのです。これは、「真実」です。「悲しみ」に「同調」すると、「悲しみ」が、「拡大」される「体験」を、私達は、することになるのです。そのため、あまりにも、大勢の人が、「地震」を怖れ、「災害」を怖れ、「恐怖」という「感情」に巻き込まれ、そこに「同調」していくと、「結果的」に、「大災害」へと、「発展」していくことになるのです。この場面の、「大きく広がる黒い雲」に、「意識」を向け、サダイジンが言う「たくさんの人が死ぬよ」という言葉に、大勢の人が、「恐怖」に飲み込まれてしまうと、その通りに、そして、さらに、それが「拡大」していってしまうということを、この場面は、私達に、語りかけてくれているのです。

「大きな黒い(ようにみえる)雲」をみても、サダイジンに、「たくさんの人々が死ぬ」とささやかれても、私達は、「高い視点」で、「神の目(心眼)」を持って、「物事」、「出来事」を「俯瞰」してゆくことが、「必要」なのです。そうして、「高い視点」で、「俯瞰」してみてゆくことで、初めて、その「出来事」の奥に隠された「真実」というものが、「捉えられて」くるのです。

そうして、その「出来事」の奥に隠された「真実」を見抜いた時、その「大きな黒い雲」のようにみえていた「出来事」も、実は、「宝物(光)」であったことに、私達は、気づけるのです。この「光」は、2極の「分離」の「意識」の「光」では、ありません。もっと大きな、2極の「光」と「闇」をも、大きく包み込む「光」です。それは、「源の光」なのです。「神々様」の、「宇宙」の、「大きな無条件の愛」なのです。

東京の地下空洞で、目覚めたすずめ。「扉」の向こう側に、入ろうとするけれど、無理でした。「やっと二人きり」になったダイジンは、喜びますが、草太を取り戻そうと必死なすずめは、ダイジンに見向きもしません。そんなすずめに、「自分のことは好き?」と問いかけます。「どっかいって」とすずめに言われ、ダイジンは、哀しさを感じます。

すずめは、なんとか草太を取り戻そうと、「決意」します。そして、草太の祖父の病室を訪れます。すずめから、事情を聞いた祖父の羊朗は、草太が、「要石」になることで、100万人の命を救えたことを誇らしく思うと言いました。すずめが、草太を取り戻すために、後ろ戸を開けると話すと、祖父は、反対します。

すずめは、「草太さんがいない世界が、私は怖いです」と、話すと、羊朗は、すずめの「覚悟」にきづきました。同時に、すずめが、「過去」に、「後ろ戸」をくぐったことがあると気づいた羊朗は、「過去」に通った「後ろ戸」からなら、「常世」に行けると教えました。すずめは、その「後ろ戸」を探しに行こうと決めます。

すずめが、去った後、羊朗を、猫のダイジンが訪問しました。

羊朗が、「お久しゅうです」とあいさつすると、「あの子についていかれますか よろしくお頼み申す」と声をかけます。

 

すずめは、草太への「愛」の気持ちから、「草太を取り戻す」と「決意」します。

祖父の羊朗は、「100万人の命を救えた」と、すずめに、そのことが、「閉じ師」として誇らしいと話します。

すずめは、それを聞いて、「草太さんがいない世界が、私は怖いです」と、まっすぐに、「純粋」な気持ちで、そう答えます。

すずめの、この気持ちは、草太への「真実の愛」なのです。

「真実の愛」は、「純粋な愛そのもの」の思いです。そこには、何の「見返り」もありません。

それだからこそ、この祖父の羊朗の「100万人の命を救うため」というこのうえなく、「最上の美であるかのような愛」の「自己犠牲」のお話にも、いっさい、惑わされることもなく自分自身の「愛」への「決断」を告げられるのです。

今までの社会では、「自己犠牲」、「救うため」ということが、いかにも、「本当の美しい愛」であるかのように、語り告がれるところもありました。

この「救うため」、「自己犠牲」は、2極の「分離意識」から、きているものです。

「救いたい」と思う、「心(意識)」が、「救われたい人」を創りだします。

この「罠」に、ひっかかってしまうから、「大勢の人のために救う」という「自己犠牲」をも、引きだし、創り出してしまうのです。

本当の意味で、「救う」のなら、「自己犠牲」は、決してやってはいけないことなのです。そこに、私達は、気づいていく時がきているのです。

本当の意味で、すずめは、今まで「自己犠牲」してきてしまっていた「要石」も、「閉じ師」である草太をも、「救う」時がやってきていたのです。

祖父は、すずめが、「過去」に「後ろ戸」をくぐったことがあることに気づいたことから、本当の意味での「救い」が、やってきている時だということに、気づきます。

すずめが、本当の意味で、「救う時」が、やってきたからこそ、すずめは、「後ろ戸をくぐり抜ける」という「過去」があるのです。

「過去」の「後ろ戸」からなら、「常世」に行けるからです。祖父は、すずめにそのことを教えました。すずめは、探しに行きます。

私達の、「過去」、「現在」、「未来」は、「一直線上」ではなく、「今、ここの瞬間」に、「全部が存在している」のです。「今、ここに全てがある」ということは、「過去」、「現在」、「未来」も、「今、ここの瞬間」に、全てが「連動」して、動いているということです。だからこそ、すずめは、「過去」にくぐり抜けた「後ろ戸」も、探しに行くことができるのです。

私達は、「次元」を超えてゆけるということなのです。

「現在」が、「変化」するなら、また、「過去」も「変化」するのです。

「過去」は、「現在」を「変化」させることにより、「書き換える」ことができるということです。

すずめの「本当の意味で救う」ということは、この「書き換える」ということと同じです。「要石」も、「閉じ師」の「歴史」も、「自己犠牲」から、抜け出していく時がきた・・ということなのです。

「要石」も、「閉じ師」も、「本質的な役割」に戻る時が、やってきたということなのです。そして、すずめは、「本質的な役割」に、戻していく「お役目(役割)」を持っていた・・ということなのです。

そのことを、知った祖父は、やってきた「神様(光と闇を司る)」であるダイジンに、「あの子についていかれますか お頼み申す」と、話したのです。

 

さて、この後、すずめの「後ろ戸」は、みつかるのでしょうか・・?!

「要石」になりそうな草太を、すずめは、みつけることができるのでしょうか・・?!

本当に、ドキドキしてしまいますね・・!!まだ、まだ、このお話は続きます!

次回を、お楽しみにしてくださいね✨✨

 

     

 

💖これは、私の「宇宙」の「真実」です。みなさんの、腑に落ちるところだけを、受け取ってくださいね。💖