Yohji Yamamotoからシーズンごとに送られてくるメッセージを楽しみにしている。

 

今季のメッセージ:

18世紀と19世紀の美学とのつながりを強く感じさせるコレクションに広がる地平は、可能な限り完璧な不完全さである。

レースからレザーまで、多くの糸を用いたドレスの再構築、アシンメトリーへの長年の拘りなど、さまざまな会話が交わされた。

複雑極まりなく構築されたすべての作品は、カットとドレープという純粋な原理から生み出されている。

それがいかに美しく、いかに容易く壊れてしまうことか。

「酒が先だよ、優しさなどはその後だ、酒が先だよ」山本耀司の歌声にのせて、

女性達がゆっくりとランウェイを静かに歩むー美しさとは何か、という永遠の疑問を私たちに投げかけながら。

 

クローゼットがさまざまな素材のさまざまな黒の色で埋め尽くされている。

Yohji Yamamotoの服に包まれていると、私が私でいられることで安心できる。極めて稀ながら、違うデザイナーのスーツなど着ることもあるが、一日中落ち着かない。自分の写真など見ても、まるっきり可笑しくて笑ってしまう。

黒、Yohji Yamamotoを着通すということはある意味において難しい。

以前、あちらの世界とこちらの世界と書いたことがあったが、それに近いことが再び起きかけているかもしれない。

以前ほどでもないにせよ、ある種のエスタブリッシュメントな世界で、私が黒を着続けていることにやはりなんらかの違和感を覚えられているの「かも」しれない。

アグレアブルではない、と評されているとでもいおうか。

 

Yohji Yamamotoを着通して不快感、違和感を覚えられないような着こなしをするのは、これはやはり着る者の力量が問われるのだろう。

皮膚の内側からにじみ出る圧倒的な清潔感、とでもいおうか。

外見をにわかじこみで整えるのでは追いつかない。

清冽な乱れのない日々の暮らし、心持ち、生き方。

 

いたく反省。

今季のYohji Yamamotoは手に入れるものがない・・・と思っていた。

 

唯一Look Bookで「よいなぁ」と思ったセットはお高いものだったし、ということは生産数が極めて少ないことが容易に想像できるし、ということは試着することができない、ということでもあるし。

 

でも偶然が重なってそのセットを手に入れることにしてしまった。

いつもと路線が異なったから悩みに悩んだのだけど。

 

早速身にまとって外出して、その布の動きに圧倒された。

長い廊下を歩いたときに廊下を通る空気の流れに布が流れるようにたなびいていることがわかった。

美しかった。大げさでなく感動した。

 

布のありようがそのままに生かされて、それでいて「服」というデザインがなされている、と思った。

 

 

 

父が亡くなった。突然の腎炎。

病院に連れていったら即座に入院。病床の空いていた別の病院に救急車で搬送された。そして2カ月未満で。

 

その後のすべてを切り盛りした。

父が死んだ日、払暁に家にもどって、一度だけ大泣きして、その後ははっきり言って悲しんでいる暇もなかったし、いまだに諸々の事後処理が続いていて哀しむ暇はない。

 

葬儀もその後のいくつかの法要もすべてYohjiの服で通した。

 

喜びも悲しみも表現できる服なのだということを実感した。

Yohjiの、服という名の美しく扱われた「布」に包まれることが私にとっての平穏。

気負わずに、自然体で着ることができる最高の安心と安定感。

普段使いできるYohji Yamamotoも好き。

本当にヘビロテするから、やわな素材だと困るのだけど。

 

以前にも書いた通りYohji Yamamotoは自分を喜ばせるための服だから、つい先日も、ただいま絶賛ヘビロテ中のアイテムが、裾の翻りのその動きの素晴らしさに布づかいの極みを見たようで、一人幸せに浸っていたところ。

体が動くと、布が揺れる、跳ねる。

嬉しくて、ひとり感動して、布の動きを楽しんだ。

 

売り子でありマヌカンであるショップの人が着ていたアイテムは、体が動くと布がたなびいた。

あ、と目が釘付けになるほどに美しかった。

服であって、服を超えた何か。

目の前を通り過ぎていった人が着ていた服の、布の動きが脳裏に残像として焼き付けられる、だなんて、なんて思わせぶりで、エロティックなのだろう。

 

 

そして今日、昔Yohji Yamamoto Inc.で勤務していた方がYohjiさんと布の関係について語っていらして、あまりのタイミングの一致に嬉しく驚いた。